[#表紙(表紙.jpg)] 人間溶解 自選恐怖小説集 森村誠一 目 次  行きずりの殺意  青の魔性  殺 意  静かなる発狂  肉食の食客《しよつかく》   怒りの樹精  人間溶解 [#改ページ]   行きずりの殺意      1  梨枝《りえ》は、掛時計を見上げて小さなあくびをすると、そろそろ寝ようかとおもった。テレビもラジオも興味のもてる番組は終ったし、特に読みたい本もない。  外は早春の雨、子供はよく寝入っている。夫が帰らぬとわかっている夜は、生活に区切りがつかないので、どうしても夜更かしをしてしまう。寝るまでのいくつかの所作が面倒なのである。炬燵《こたつ》に身体を預けたまま、ただ漫然と時間を流している。  女はチャンネルの切りかえが遅いことをこんなときに痛感する。 「本当にもう寝なければ」  梨枝はようやく炬燵から身体を抜き出した。軽く歯をみがいてから、寝る前の火元をいちおう点検する。朝の早い団地の窓は、ほとんど灯が消えて、みな寝しずまっている。  北に面した玄関のドアがカタカタと鳴った。北風になると、ドアが受け枠に当たってこんな音をたてるのだ。 「風が出たようね」  梨枝はつぶやくと三和土《たたき》に立ってなにげなくドアを開いて外を見た。一瞬、黒い影が眼前にすっと立った。悲鳴を上げようとした口を一拍早く塞《ふさ》がれた。  そのままの姿勢で家の中に押し込まれた。 「奥さん、静かにするんだ、怪我《けが》をしたくなかったらな」  凶暴性を抑えた声が耳のそばでした。  ——あなた、だれ? 警察を呼ぶわよ——  言ったつもりが、声にならない。口を塞がれていたせいではなく、恐怖と驚愕《きようがく》のあまり声帯が麻痺《まひ》してしまったのである。  黒い影は、梨枝を抱きすくめたまま家の中に押し入ると、後ろ手でドアを閉め、カチッと錠を下した。さらにご丁寧にドアチェーンまでかけた。これで鍵《かぎ》をもっている夫も入れないことになる。 「入れ! 奥へ行くんだ」  侵入者は命じた。奥の六畳には今年三歳になる浩一《こういち》が眠っている。彼女は自分自身の危険よりも子供に及びつつある危険に慄《ふる》えた。  ——なんとしても浩一を守らなければならない。あの子を守ってやるのは、自分しかいないのだ——  その自覚が、恐怖に麻痺した梨枝を現実に引き戻した。 「いったい何をするつもりですか?」  口を抑えた侵入者の手が、少しゆるんだ隙間《すきま》から、梨枝は言った。 「おとなしくしていれば手荒な真似《まね》はしねえよ」 「お金ならあげますから、乱暴しないで」 「旦那《だんな》を呼べ」 「主人は……」  と言いかけて梨枝は詰まった。侵入者は、夫が家にいるとおもっている。もし彼が女子供しかいないことを知ったら、どんな振舞いに出るかわからない。 「どうした、旦那をここへ出すんだ」  侵入者の声が焦った。2DKの狭い家の中である。いつまでも隠し通せるものではなかった。 「ははあん、旦那は留守だな」  侵入者の声がほくそ笑んだように聞こえた。 「家の人間は、あんたの他にいないのか?」 「子供が、子供には乱暴しないでください」  梨枝は訴えた。 「ガキがいるだと? どこに」 「…………」 「手間を取らせんなよ」  侵入者は手に力を加えて、彼女を奥の部屋へ引き立てた。ダイニングキチンを通って、炬燵とテレビのある四畳半の居間と、寝室に使っている奥の六畳を覗《のぞ》けば、家の中を一回りしてしまう。 「布団が二つしか敷いてないな」  侵入者は鋭い観察をした。 「子供が一つ占領しているのに、両親が一つ床の中でいっしょに寝るわけじゃあるまい。旦那は今夜帰らないな」 「夫婦だからいっしょに寝たっていいでしょう」言ってしまってから、それが相手の劣情を刺戟《しげき》しやすい言葉であるのを悟った。 「それにしちゃあ、布団が小さすぎるんじゃないか」 「家の中が狭いので、いつも主人が帰って来てから敷くんです」 「奥さん、嘘《うそ》を言うと、この子の安全を保障しないよ」  侵入者は険悪な視線をよく寝ている浩一に向けた。 「お願い! 子供にはなんにもしないで」  侵入者にまったく無防備の家の中を見られてしまった。相手の胸三寸でどのようにも料理できる状態であった。 「主人は、夜の勤めで、たぶん朝に帰って来ます」  実は今朝関西へ出張して明日の夜にならないと帰らない。 「朝、何時ごろだ?」 「そのときによってちがうわ」 「だいたい何時だ?」 「八時、いえ七時ごろ」  少しでも夫の帰る時間を早く言えば、侵入者もそれだけ早く去るだろうとおもった。  梨枝はここで初めて相手の顔を真正面から見た。  若い。まだ二十歳前かもしれない。全身ずぶ濡《ぬ》れで、長髪が海草のように青ざめた顔にへばりついている。  全身が小きざみに震えているのは、雨に濡れたせいばかりではないらしい。 〈まだ子供なんだわ〉とおもうと、梨枝の心にいくらか余裕ができた。この年ごろの若者は、爆発させると恐しいが、上手になだめると、意外に素直になるものである。 「さあ、家の中にはあなたに歯向かう者のいないことがわかったでしょう。だから乱暴しないで」 「そっちがおとなしくしていれば乱暴はしない」 「お金が欲しいのね」  梨枝は、なんとか金で解決をつけてしまいたかった。いま家の中にキャッシュは五万円ぐらいしかない。あと金目のものは多少の額の預金通帳と、彼女の装身具類だけである。  預金通帳は、侵入者にまったく価値がないだろう。 「金はあるのか」 「あんまりはないわよ、普通のサラリーマンですもの」 「あるだけもって来い」  梨枝は、言われたとおり有り金を全部出した。サラリーマン家庭には、ほぼ半月をまかなう大金であったが、これで子供と自分の安全が購《あがな》えるのであれば、安いものだとおもった。 「これで全部か?」 「疑うなら家探ししてもいいわ。サラリーマンの家にそんなにお金があるわけないでしょ」  侵入者は、彼女の言葉に納得したのか、よく数えもせずに、差し出された大小取り混ぜた札をポケットに突っ込んだ。 「お金を上げたんだから、出て行ってよ」 「そうはいかねえよ」  梨枝が落ち着くと同時に、相手にも落ち着きが出てきたようである。危険な徴候だった。 「欲しいものは手に入れたんでしょ」  よみがえる恐怖を必死に抑えつけながら、梨枝は抗議した。 「いまここを出て行っても、110番されたら、あっさり捕まってしまうよ」 「110番なんかしないわ」 「信用なるかよ、おれは強盗したんだぜ」 「だって最初から狙《ねら》っていたんでしょ」 「ちがう、おれはあそこで雨宿りしていただけなんだ。それなのに奥さんがいきなり首を突き出して悲鳴をあげそうになったから、しかたがなかったんだ」 「だったらなおさらもう出てって。そのお金はあなたに上げたのよ、あなたは強盗なんかじゃないわ」 「この金を返せば、住居侵入ぐらいですむかもしれない。でもおれは金が欲しい。必要なんだ。いったん捕まったら、もらったなんて言い訳は通用しないよ」 「それじゃあどうしたらいいのよ」  梨枝は泣き声になった。こんな押し問答をしている間に浩一が目をさましたら一大事である。もともと人見知りをする子だから、見知らぬ男を家の中に見出せば、泣きだすにちがいない。それは相手を興奮させて、どんな凶暴な振舞いに駆り立てるかもわからない。なんとか浩一が目をさます前に、賊を追い出したかった。 「いい方法があるんだ」 「いい方法?」 「奥さんが決して110番できなくなる方法がね」 「お願い! 殺さないで」  おもわず悲鳴をあげかけた彼女の口を慌てて押えなおした強盗は、 「大きな声を出すんじゃねえ。だれが殺すといった。そんなことはしないよ。おれはそんな馬鹿じゃない。奥さんがご主人に知られてはまずいようなハンコを体に捺《お》していくのさ」 「最初からそのつもりだったのね」  梨枝は唇をかんだ。浩一がいなければ、なんとか抵抗できないこともないとおもったが、子供に危害が及ぶのを防ぐためには、結局、自分の体を楯《たて》にする以外になさそうであった。 「勘ちがいしないでくれ。奥さんが欲しくって言ってるんじゃない。口どめのためだ」 「そんなことしなくても、だれにも言わないわ。お願いよ、信じて」 「あんたはいま本当にそうおもっているだろう。しかし、おれがここにいるからだ。おれがいなくなったら、すぐに110番するね」 「信じられないんだったら、電話線切っても、いいわ」 「野中の一軒家じゃないよ。おれが出て行った後、隣り近所へ駆け込まれたら、それまでだ」 「あなたそんなことをしても口どめにはならないわよ」 「なんだって?」 「私、あなたに犯されてもちっとも恥ずかしいなんておもわないわよ。だって、しかたがないことでしょう。主人だって許してくれるわ。そんなことをすれば、私かえって110番するわ。私、決してあなたを許さない」  相手の目にひるみの色が浮かんだ。精々、悪党ぶってはいるが、それほどの悪《わる》ではないと踏んでかけた反撃《カウンターブロー》が、意外に効いた様子である。こうしてみるとむしろあどけない面立ちが強調される。部屋に上がる前に靴を三和土《たたき》へ脱いだのを見ても侵入の目的が緩和される。 「奥さん、強がってもだめさ。強盗に強姦《ごうかん》されたなんて、決して名誉なことじゃない。人妻は隠したがるよ」 「なるべくだったらそんなこと人に知られたくないわよ。でも、私はちがうわ、私不名誉に耐えても、屈辱を許さない。お金を取ったうえに、体まで奪おうなんて卑怯《ひきよう》よ、それで口どめできるとおもっているなら、女を甘く見てるわ」  梨枝はおもいきって強く出た。それは一種の気合いの勝負だった。  強盗はうつむいた。殺してまで口を封じようとするほどの悪《わる》ではないと読んだのは、当たったのだ。もっともその読みに自信がなければ、彼女はこんな危険な賭《か》けをしなかったはずである。 「あなた、お腹が空《す》いているんでしょう。なにかつくってあげるわね」  相手のひるみを狙って、彼女は言った。 「腹の皮と背中の皮がくっつきそうだ」  強盗は、緊張で忘れていた空腹をおもいだしたらしい。 「待ってて。おいしいものをつくってあげる」  梨枝は台所に立った。御飯を新しく炊き直し、ミツバの味噌汁《みそしる》、タケノコの木の芽あえ、オムレツ、到来物の松阪牛の味噌づけ肉などをさっと調理して出した。 「こんな時間なので、あり合わせのものしかないのよ」 「凄《すげ》え」  強盗青年は、梨枝が夕飯の材料の残りと、冷蔵庫の中身をかき集めてつくった言葉どおりのあり合わせに唾《つば》をのみこんだ。 「さあ、さめないうちに召し上がりなさい」  梨枝にうながされて、彼は食べ物にかぶりついた。よほど腹が空いていたらしく、最初の一杯はほとんど噛《か》まずに胃の中へ送り込んだ。 「あまり慌てて食べると胃けいれんをおこすわよ」  梨枝に注意されて、ようやく少し噛みはじめた。食べ物をあらかた平げて、ホッとしたときに乗じて梨枝は、 「あなた、名前なんていうの?」 「…………」 「心配しないで。都合が悪ければ、偽名でもいいわよ、なんと呼ぶのかわからないと不便でしょう」 「会田ってんだ」 「あいださんね」 「会津の会に、田んぼの田だ」 「どうしてこんなことをしたの?」 「…………」 「言いたくなければ、言わなくともいいわ」 「おれ、人を殺したんだ」 「人を!? まさか」  梨枝は、自分でも顔色の変ったのがわかった。取りかけていた優位がいっきょに覆《くつがえ》ったのをおぼえた。 「本当だよ、おれおふくろを殺しちまったんだ」 「お母さんを……」  後の言葉はつづかない。尊属《そんぞく》殺人は死刑か無期懲役と聞いている。母親を殺してきたこの青年は、追いつめられて一人殺すも二人殺すも同じだと、どんな暴発をするかわからない淵《ふち》にのぞんでいたのである。  それを知らず、先刻、会田の瞳《ひとみ》に浮かんだひるみに乗じての賭けがどんなに危険であったか、いまおもい知らされた。  梨枝の体の芯《しん》から小きざみな震えがわき上がってきた。だがそれを相手に悟られてはならなかった。こちらが会田を恐れていることを悟られると、いったん鎮まったかに見えている彼の凶暴性が、いつまた爆発するかわからない。 「で、でも、どうしてそんなことをしたの?」  声の震えを気取られないように、一語一語抑えるように聞いた。 「本当のおふくろじゃないんだ。おやじの後妻なんだよ。おやじが生きているころから、男をつくっちゃあ遊びまわっていたけど、おやじが去年、脳溢血《のういつけつ》で死ぬと、今度はおれに色目を使いはじめやがった」 「いっしょに住んでいたのね」 「いちおう籍が入っていたからね、戸籍の上じゃ母子だったんだ。しかしあんなのおふくろじゃない、メスブタだよ」 「でもどうして殺したりなんかしたの?」 「おれ自動車組立工場の夜勤専門をやってるんだ。夜働いて、昼間高校へ行っている。今日学校から帰って来て疲れて昼寝していると、胸が重苦しい。ふと目をさますと、あのメスブタがおれの上にまたがっていたんだ。いつの間にかおれの体が、おれの意志に背いて、あのメスの体の中へ入っていた。おれはそのとき自分を忘れた。気がついたときは、おれは手にバットをもっていて、メスブタは頭から血を流して倒れていた」 「それで逃げ出して来たのね」 「うん」 「逃げきれるとおもって?」 「わからない、しかし、あんなメスブタを殺した罪で絶対に捕まりたくない」 「自首すれば、情状酌量ということもあるわよ」 「そんな気やすめを言わないでくれ。おれだって親殺しが死刑か無期懲役しかないことぐらい知っている」  尊属殺人は養親にも適用される。 「でも無期といったってまじめにおとなしくしていれば、たいてい早く出て来られるそうよ」 「まじめにおとなしくね、おれはこれまでずっとまじめにおとなしくしていたよ。�深夜の懲役�だと言われる夜勤専門の組立工になったのも、金になるからだった。金を貯《た》めて、アメリカへ留学して英語を勉強するつもりだった。将来は、国連の同時通訳ができるくらいになるつもりだったんだ。おれはなに一つ悪いことをしなかった。自分の夢のために、まじめにこつこつと働いてきた。仲間たちが可愛《かわい》いガールフレンドとデートしているのにも目をつむり、ひたすら自分の夢に向かって歩いていた。それがあの色気ちがいのためにこのザマだ。せっかく貯めた金も、慌てて逃げ出したのでみんなおいてきてしまった。あの貪欲《どんよく》なメスブタが死に際におれの血の出るような金をひっさらっていきやがった」 「会田さん、あなた殺す気はなかったんでしょう?」 「ないどころか、いつも殺したいとおもっていた。それが今日爆発したんだ。あのメスに涜《けが》されたかとおもうと、自分で自分の体を切り落としたいくらいに汚らわしい」 「あなたには殺すつもりなんかなかったのよ。そうだわ、あなたにそんなことができるはずがない。だったら、殺人じゃなくて過失致死か傷害致死よ。罪もそんなに重くないわ」 「おれは殺すつもりだった。あの女、何度でも殺してやる」 「あなたは、いま混乱しているのよ、落ち着けば、自分に殺意のなかったことがわかるわ。そうだわ、お風呂《ふろ》にでも入ったらどう。そうすれば暖まるし、体の汚れも落ちるわよ」 「風呂か……」  会田の表情が少し動いた。だがたちまち険しく引きしまって、 「奥さん、そんなおためごかしを言ったってだめだ。風呂へ入っている間に警察を呼ぶつもりなんだろう」 「疑い深いのね、そんなことしないわ」 「女は信用できない」 「私は、あなたのお母さんとはちがうわよ」 「あのメスのことは言うな!」  会田は突然ヒステリックにどなった。その声に驚いて、六畳に寝ていた浩一が目をさました。 「ママア、ママア」  と襖《ふすま》のかげで動く気配がある。襖を開けられたら、最悪の事態になる。会田は舌打ちすると、声をひそめて、 「電話はどこにあるんだ?」 「そこのサイドボードの上よ、見えるでしょ」 「よし、子供の所へ行ってやれ。変な真似《まね》をするんじゃないぞ」  電話機を自分の支配下に確保してから、子供の所へ行くのを許した。だが彼は重大なものを見過していたのである。防犯ベルが寝室の枕元《まくらもと》に設けてあった。  浩一を寝かしつけながら、梨枝は防犯ベルのボタンを危うく押しかけた。ベルは、この棟の二十四世帯にすべてつながっている。  だが、梨枝の指は、ボタンの上で硬直した。ベルを鳴らせば、近所の人間が駆けつけてくれるだろう。110番も呼んでくれる。だが彼らは合《あ》い鍵《かぎ》をもっていない。錠とドアチェーンによって二重に閉ざされているスチールドアを押し破っている間に、会田はどんなことでもできる。あのドアは一トンの外力に耐えられるそうだ。二人を人質にしてたてこもれば、警察が来ても、手も足も出なくなる。追いつめられて、浩一になにを仕掛けるかも予測できない。この際、子供を危険にさらすようなことは、いっさいひかえるべきだ。  ようやく決心がついて、梨枝はベルから手を引いたとき、折り悪《あ》しく電話が鳴った。せっかく寝つきかけた浩一がビクッとした。一瞬、梨枝は心臓が凍りついた。ベルが鳴る都度、胸の奥に鋭い刃を刺し込まれるようであった。事実、音は鋭く尖《とが》った凶音となって、胸に痛覚を送り込んだ。ベルは執拗《しつよう》に鳴りつづけた。 「おい、出ろ。あんたが家にいるのを知っている人間がかけてきて疑われるといけない」  会田がついにうながした。梨枝は浩一にちょっと待っているように言い聞かせて、電話機のそばへ行った。 「いいかわかってるだろうな、変なことをしゃべったら、あんたもガキも安全を保障しねえぞ」  会田が凄《すご》んだ。語調に真剣な迫力があった。 「わかってるわ」  梨枝はうなずいて送受器を取った。会田がいっしょに耳を寄せる。 「もしもし梨枝か」  夫の声であった。ふだんはなにげなく聞きすごしていた日常の声があふれるほどに懐しくひびいてくる。 「まあ、あなた!」  梨枝は涙ぐみかけた。会田が台所から持ち出してきた包丁で脇腹《わきばら》をチクと突いた。 「なんだい、びっくりしたような声をだして。いまホテルの部屋でひとりでオンザロックをちびちびやっているんだ。なんとなくきみが恋しくなっちゃってね」 「ありがとう」  夫の声をすぐかたわらにいる人のように聞きながら、救いを求められない。そのもどかしさと切なさが、節約した言葉にこめられる。 「きみはいまなにをしていたの?」 「そろそろ寝ようかとおもっていたところよ」 「ぼくがいないとずいぶん夜更かしするんだな。浩一は寝たかい」 「あなた、もう二時よ、とっくに寝たわ」 「きみはいまどんな格好をしているんだ?」  こちらの深刻な状況も知らず呑気《のんき》なことを聞いてきた。きっと旅の独り寝の侘《わび》しさから、妻の肌が恋しくなったのにちがいない。出張に行ってまで妻を想《おも》ってくれるのは嬉《うれ》しいが、いまは困る。  夫婦間の微妙な会話が、せっかくおさまりかけた会田を刺戟《しげき》するおそれがある。 「どんな格好って、いつもと同じよ」 「おいおい、ずいぶん素っ気ない言い方をするじゃないか。ぼくの好きなローズピンクのネグリジェを着て、きっと下穿《したば》きをつけないで寝るんだろうな」 「あなた、よして。私いま……」  脇腹がまたチクリと痛んだ。 「私、これからお風呂へ入るところなのよ」 「えっ、こんな遅くかい?」 「お湯がわきすぎちゃうわ、あなたも明日早いんでしょう、電話代ももったいないわ」 「いつもとちがって冷たいんだねえ」 「そうよ、こんな夜遅く、浩一が起きちゃうわよ」 「そうか、浩一は目ざといからな、こりゃ悪かった。それじゃあ明日の夜を楽しみに膝《ひざ》小僧を抱いて寝るとするか、それじゃあお寝《やす》み、戸締りとガスの元栓に気をつけてな」  夫は、いまの場合、手遅れの注意をつけ加えて電話を切った。梨枝が送受器を置くと、会田が大きくため息をついて、 「これで旦那《だんな》は明日の晩まで帰らないことがわかった」  とつぶやいたとき、ギョッとするような事件が起きた。 「ママア、このおじちゃんどこの人?」  いまの電話に気を取られている間に、浩一が起き出して来ていた。咄嗟《とつさ》のことで梨枝も会田も言うべき言葉がない。会田は包丁を手にもったままである。最悪の事態であった。 「このおじちゃんはね、パパのお友だちよ」  梨枝はようやく言葉を押し出した。 「どうしてパパいないの?」 「パパはいまちょっとご用事なのよ、すぐ帰って来るわ。さあ早くお寝みなさい。子供が起きてる時間じゃないわよ」  梨枝が諭すように言うと、浩一は案外素直にうなずいて、 「おじちゃん、おやすみ」と会田の方へぴょこんと頭を下げた。 「坊や、いいこだね、おやすみ」  会田が浩一の頭を撫《な》でてやると、ふだんは人見知りするのに、機嫌よく寝間へ引き返した。緊迫した空気が急に解《ほぐ》れた。 「ああ、びっくりしたわ」  浩一が寝間へ引き返して間もなくすやすや寝息をたてはじめたのを確かめると、梨枝は極度の緊張から急に解放されて、全身が虚脱したようになった。 「可愛いお子さんだな」  会田もホッとしたように言った。「ガキ」がいつの間にか「お子さん」に昇格している。浩一が鎮静剤の役を果たした形であった。 「きっとあなたが気に入ったのよ、人見知りするあの子にしては、珍しいわ」 「子供が好きなんだ」 「子供の好きな人に悪い人はいないわ、ねえ、あなたに殺意なんかなかったのよ、自首したらどうなの? 風の気配にも怯《おび》えて逃げまわるより、男らしく名乗り出て、法の裁きを受けるのよ」 「…………」 「私が証人になってあげるわよ」 「何の証人に?」 「あなたが人を殺すような人でないことの証人になってあげるわ、私の所へ来てなんにもしなかったことや、子供から気に入られたことなどを証言してあげるわよ、それはきっとあなたに有利に働くはずよ」 「おれの話を信用してくれるんだね」 「信用するわ、あなたは嘘《うそ》をつけるような人じゃないもの」梨枝はあと一息で説得できるとおもった。 「おれは、これまでに他人《ひと》からこんなに優しい言葉をかけられたことはなかった。奥さん、お願いがある」 「なあに」 「おれを抱いてくれないか」 「…………」 「ただじっと抱いてくれるだけでいい。変なことはしない、約束する。おれはまだ女の人に抱きしめられたことがないんだ、本当のおふくろは小さいときに死んじまったし」会田の目に哀願があった。 「抱いてあげるわ、でもそんな危ないものしまってちょうだい」  梨枝は、会田がまだ手にもっている包丁を指さした。 「ごめんなさい、前後の見さかいもなくこんなものを振り上げてしまって」  会田は恥ずかしげに包丁を元の位置へ戻した。一時の興奮から常態に復しつつある。梨枝はなんとか無事に切り抜けられそうな自信が出てきた。 「こちらへいらっしゃい」  梨枝は優しく呼んだ。会田は少年のように頬《ほお》をあからめて、彼女のそばへ来た。そんな態度は、先刻|剥《む》きだした凶暴性とは別人のもののように初々《ういうい》しい。  ——おそらくまだ童貞なんだわ——  だから義母の獣的な行為に激しい拒絶反応をしめしたのであろう。  梨枝は、会田の上体に腕をまわして、そっと力をこめた。若者のあぶらっこいにおいが鼻をついた。それは夫にもすでにないにおいだった。未熟ではあるが、無限のエネルギーを秘めた若いオスのにおいである。梨枝から、未知の男に押し侵《い》られた恐怖が消えて、成熟した女の血が騒いだ。  旅先のホテルで独り寝をしている夫の顔が、ふと瞼《まぶた》の裏をよぎった。 「これでいい?」  梨枝は心の中の不貞なおもいを振り切るように言った。 「奥さん」  会田は、彼女の身体にしがみついてきた。若い男の力が本気になったらかなわない。もし押し倒されでもしたら、相手の力に負ける前に、自分の成熟に負けてしまうだろう。 「痛いわ、そんなに力を入れては」 「女の人の体って柔らかいんだね」 「あなたは寂しかったのね、これからも時々遊びにいらっしゃい」 「本当に遊びに来てもいいのかい?」 「いいお友だちになりましょう」 「おれ、これ返すよ」  会田はポケットから札束を引き抜いた。 「あらいいのよ、それはあなたに差し上げたのよ」 「いや返すよ。友だちからこんなにもらえないよ」 「それじゃあ、せめてこれだけでももっていって、全然お金がないと困るでしょ」  梨枝は返された札束の中から一万円札を一枚引き抜いて、会田の手に押しつけた。 「奥さん、有難う」  会田の目の奥がうるんだ。その隙《すき》に梨枝はそっと抱擁《ほうよう》の手を解いて、 「お風呂《ふろ》へお入んなさいよ、体がすっかり冷えてるわ」 「…………」 「まだ疑ってるの?」 「疑ってなんかいない!」  会田はむきになった。 「それじゃあお入りなさい。すぐにわくわよ、お風呂に入ってゆっくり暖まって朝までぐっすり眠るのよ、そして心を新たにして罪の償いに行くといいわ」 「うん、そうする」会田はうなずいた。  ガス風呂は効率がよい。間もなく用意ができた。 「着物は、このかごの中へ脱ぐといいわ。ここに浴衣《ゆかた》を置いておくから出たら着替えるのよ」  梨枝が脱衣かごに夫の浴衣とバスタオルを置いた。 「浴衣はいいよ」 「どうして?」 「着ているひまがないもの」 「朝までまだ時間があるわよ」 「風呂へ入ったら出て行く。雨も上がったようだし、自首は早いほどいい」 「朝まで、ゆっくり寝《やす》んでいったら」 「いや、奥さんにこれ以上迷惑はかけたくない」 「私、迷惑なんておもってないわよ」 「刑が終ってからも、友だちとしてつき合ってくださいね」 「もちろんよ、私、今夜のことは忘れないわ、今度は主人にも紹介するわ、さあ早くお入りなさい」  会田が脱衣する様を横目に見ながら、梨枝は夫の裸身と密《ひそ》かに比較していた。こんな際にも女の冷徹な比較が働く。会田は浴室へ入った。  いまなら警察へ連絡する絶好の機会だった。浴室の造りがいいので、外の音は聞こえない。  ——どうしよう?——  梨枝は、一瞬迷った。会田は風呂から上がったら、出て行くと言っているが、どう気が変るかわからない。とにかく義母を殺してきた凶暴性を秘めている人間である。これまでは自分の慰撫《いぶ》策が功を奏して殊勝にしているが、またいつ牙《きば》を剥き出すか予測できない。  警察が駆けつけるまでに十分前後、その間なんとか時間を稼げる。いや警察を呼ぶ前に、防犯ベルを押そうか。しかし防犯ベルだと、会田に気取られてしまう。やはりその道のプロの警察に連絡して、密かに救出を依頼するほうが安全だ。警察なら�人質�の安全策を講じた上でアプローチしてくれるだろう。  梨枝の心は動揺した。会田はいい気持で風呂に浸っているのか、湯の動く気配もない。 「お湯かげんはどう?」  心の動揺を隠すために、浴室の中へ声をかけた。 「ちょうどいいですよ、ああ、こんな風呂に入るのは、久しぶりだなあ」  会田はまったく無防備にくつろいでいた。梨枝を完全に信用している様子である。  梨枝は判断した。このまま会田を怒らせることがなければ、おとなしく出て行くだろう。せっかく事態はよい方角へ向かっているのにわざわざ危険な賭《か》けをするのは、愚かだ。  梨枝は、電話機にのばしかけた手を引っ込めた。会田が浴槽から上がる気配がした。      2  風呂から出ると、会田は身仕舞いをして、梨枝の前に来た。彼女の前にキチンと坐《すわ》ると「奥さん、今夜はおせわになりました。ぼく今夜のことは忘れません」と挨拶《あいさつ》した。 「いやあねえ、そんなにかしこまって、なんだか勝手が狂っちゃうわ」  梨枝は苦笑した。彼女も強盗に感謝される破目になろうとは、おもってもいなかった。 「それじゃあ、明るくならないうちに行きます。新聞屋や牛乳配達に見られるとまずいから」  会田は立ち上がった。——とほとんど同時に玄関のコールブザーが鳴った。二人はギョッとした視線を重ね合った。二人がその場にしばらく硬直したようにしていると、ふたたびブザーが鳴った。 「だれかしら? こんな時間に」  梨枝にも心当たりがない。せっかく出て行きかけた会田の顔が険しく引きしまっている。この状態で捕えられれば、彼は依然として強盗なのである。 「奥さん、出てください。応答しないと怪しまれます」  会田がうながした。だが不安を隠しきれない表情は、彼女の出方しだいでいつでも凶悪性をよみがえらすことを物語っている。梨枝がブザーの主に応えている間、彼は浩一を扼《やく》しているのだ。 「どなた?」梨枝はドアの内側からたずねた。 「あら、奥さん、夜分すみません」  聞こえてきたのは、隣家の井沢夫人の声である。おしゃべりの金棒引きで、日頃梨枝が敬遠している相手であった。主人はおとなしいサラリーマンなのだが、妻のほうが難物で、会社から帰って来た旦那《だんな》を放り出したまま、よその家に侵《はい》り込んでくだらないおしゃべりに耽《ふけ》っている。  侵られたほうこそいい災難だが、邪険に扱うと、後であることないこと近所じゅうにふれまわられるので、がまんしながら相手をしてやっているのである。  梨枝は、この団地に来たときから垣根を設けて接しているので、相手も近づけないでいるが、少しでも隙があれば、侵り込もうとする気配がうかがわれた。  その井沢夫人がネグリジェにガウンを羽織っただけのしどけない格好で、ドアの外に立っていた。隣家の主婦とあってはドアを開けないわけにはいかなかった。 「まあ、奥さん、どうなさったのですか」  梨枝はうすめに開けたドアの間からたずねた。ドアを開ききらないところに、こちらの迷惑を暗示したつもりである。井沢夫人に会田がいることを悟られて、下手に騒ぎたてられたら、浩一の身にどんな危害を加えられるかわからない。  せっかく会田がおとなしく帰りかけた矢先に、時ならぬ井沢夫人の訪問は、激しい憎悪をおぼえるほど迷惑であった。 「奥さん、こんな夜更けに本当にすみません。お宅にまだ電気がついていたので、起きてらっしゃるとおもって」 「どうかなさったのですか?」 「実は主人の歯が痛みだして、それはもうひどい苦しみようなんです。あいにく宅にはなんの薬もなくて、ひょっとしたらお宅になにか鎮痛薬がないかとおもいまして」 「鎮痛楽ですか」 「本当にすみません。朝までしのげればいいのです。なにかお薬があったら貸していただけないかしら」  こうまで言われては、むげに追い返せなかった。いちおうジェスチャーだけでも、救急箱を調べなければならない。 「ちょっとお待ちになって」 「すみませんわねえ」  梨枝は、ドアを細目に開けたまま、家の中へ引き返した。まさか隣人の立っている前でドアを閉め、鍵《かぎ》をかけるわけにはいかない。救急箱の置いてある居間へ戻ると、会田が寝室との境の襖《ふすま》の所に緊張した表情で立っていた。それはいつでも浩一を扼せる姿勢であった。梨枝は会田に無言でうなずいてみせた。  うまいこと追い返すから心配するなと暗示したつもりである。  会田もうなずき返した。救急箱に幸い市販の鎮痛薬があった。それをもって玄関へ引き返すと、ずうずうしくも井沢夫人は三和土《たたき》に侵り込んで、奥を覗《のぞ》き込むようにしている。  会田の姿を見られなかったかと、一瞬冷汗をかいたが、ここからは会田の居る場所は、死角になっていた。 「ちょうどいい鎮痛薬がありましたわ」 「本当にすみません、たすかったわ。でも奥さんって、用意がいいのねえ、私が救急箱の点検さえ怠らなければ、こんなご迷惑をかけずにすんだのに。でもね、私、奥さんの所なら必ずあるとおもったのよ。私のカンは当たったわ」 「早くご主人に服《の》ませてさしあげたら」  あきれたことに、こんな場合にもおしゃべりをしていきたそうな井沢夫人の気配に、梨枝はいらいらしながらうながした。 「本当にたすかりましたわ。後で必ずお返しをさせていただきます」 「お返しなんてそれよりご主人をお大事に」 「最近は歯科医不足で、予約が半年ぐらい先でないと取れないんざますよ、現在痛んでいる歯の治療が、半年ぐらい先にならないと受けられないなんて、まあいったいどうなってるんでしょ、予約の番がまわってくるころは、歯が抜けていますわ。私も甘いものには目がないのですけど、虫歯になったときの苦痛を考えて、がまんしてますのよ。まあ本当にいったい……」 「ご主人がお待ちになっていますわよ」 「あら、そうでしたわね、私としたことが、すっかり主人のことを忘れてしまって、それではごめんあそばせ」  井沢夫人は、ようやく本来の用事をおもいだして出て行きかけた。ドアをすり抜けようとしたとき、彼女の視線は三和土の一角へ向けられた。 「あら、どなたかお客様ですの?」  と井沢夫人に問いかけられて、梨枝は全身が凍りついたように感じた。三和土には会田のズック靴が脱ぎ捨てられてあった。いかにもその主が夜中雨の中をやって来たのを物語るように泥にまみれ、水びたしになっている。  ——どうしてこの靴に気がつかなかったのかしら?——  梨枝は唇をかみしめたが、すでに手遅れであった。井沢夫人はいかにもたったいま気づいたかのように言ったが、とうにその靴の存在を知っていて、出て行きしなに意地悪くマークしたのかもしれない。  梨枝の夫は、大手商社マンとしてなかなかのスタイリストである。かつて団地自治会でだしている新聞が、住人のベストドレッサーの選出をしたとき、ベストスリーに入ったほどだ。その彼がこんなよれよれの靴をはくはずがなかった。そしてそのことを知っているからこそ井沢夫人は、「だれか客か?」と意味をもたせた言い方をしたのである。  あいにくなことに井沢夫人は、今日と明日梨枝の夫が出張して家にいないことを知っている。朝、彼女がバス停まで夫を見送って行ったとき、たまたま井沢夫人と出会って、旅装の夫の姿を見られた。「ご旅行?」とたずねてきた相手に、隠す必要もないことなので、二日間出張だと答えたのである。  夫の留守に、男ものの、明らかに夫のものではない靴を見て、井沢夫人がどんな想像を働かせたか。雨は夜になってから降りはじめた。�客�は夜になってから来たのだ。  夫の留守を狙《ねら》って、人妻が深夜迎え入れる男の客とは……井沢夫人の想像は、たちまち忌まわしい邪推に発達したであろう。彼女がくだらないおしゃべりをしてなかなか帰らなかったのも、時間を稼ぎながら奥の気配をうかがっていたからか? いやあるいは、「鎮痛薬」も口実で、会田が家の中へ入るところを目撃して、様子を探りに来たのかもしれない。  もちろん強盗と知っていたら、近づきもしなかっただろう。かかり合いになるのを恐れて、自閉の安全の中に知らん顔をしていたはずである。井沢夫人が来たのは、梨枝の不倫を邪推して偵察するためだ。  井沢夫人に�事情�を打ち明けて救いを求めることはできない。その結果は、おもうだに慄然《りつぜん》とする。こうしている間も、会田が固唾《かたず》をのんでこちらの気配をうかがっているのだ。  ——とにかくいまは井沢夫人を帰らせて、後で邪推を解けばいいわ—— 「いいえ、浩一と私だけですけど」  梨枝は平静を装って言った。 「あら、よけいなことを言ってごめんなさい。ご主人の靴ではないように見えたものですから」  井沢夫人は意地悪く会田の靴に目を凝らした。 「主人のですわ。捨てるつもりで外へ出しておいたのですけど、雨が降ってきたので、一時取り込んだのです。それより早くご主人にお薬をさしあげて」 「あら、本当に。主人に怒られちゃうわ。私っていつもこうなんですのよ。それでは」  井沢夫人は、ようやく出て行った。      3 「ああ、すっかり疲れちゃったわ」 「なんておしゃべりな女なんだ」  二人はため息をついて顔を見合わせた。 「でも、なんとか追いはらったわ」 「おれのこと気がついただろうか?」 「だいじょうぶよ、それにもし気がついたところでどうということはないでしょ。あなたはなにも悪いことしたわけではないし」 「奥さんに後で迷惑をかけないかな」 「だいじょうぶよ、あなたがたしかにここにいたという証拠はないのだから」 「とんだ邪魔者が入ったけれど、奥さんのおかげでたすかった。奥さん、本当におれのことを信じてくれたんだね」  会田の口調には感動があった。 「どうしてそんなことを言いだすの?」 「さっき、隣りの奥さんに救いを求める気なら、いくらでもできたのに、奥さんはそれをしなかった」 「そんなことをする必要が、どこにあるのよ? あなたは私たちになにも危害を加えていないじゃないの」事実は、浩一を�人質�に扼《やく》されていたからであるが、それを言ってはならない。 「そう言ってもらうと救われるけど、でもおれは招かれて来たわけじゃないからな」 「今度はご招待するわよ、主人と二人して」 「その日を楽しみにしています」  会田は出て行こうとした。 「あ、ちょっとお待ちになって」  立ち上がった男の後ろ姿に、梨枝は呼びかけた。 「なにか?」と会田が振り向くのへ、 「もう少しお待ちになったほうがいいわ」 「どうして?」 「さっきのお隣りの奥さんがこちらの様子をうかがっているような気がするのよ」 「まさか」 「いいえ、あの人ならやりかねないわ、姿を見られたらまずいでしょ」 「奥さんに迷惑をかけたくない」 「私のことより、あなたの身を考えているのよ、どう見てもよその家を夜訪問する格好じゃないもの」  あらかた乾いてはいたが、泥をこびりつかせたジーパンと破れジャンパー姿の会田は、機動隊と渡り合った過激派の学生のようである。こんな姿で深更の町を歩きまわっていれば、確実にパトロールの職務質問に引っかかるだろう。 「もうここまできてしまったからには、朝まで待ったほうがいいわ」 「でも、明るくなると、人目が多くなる」 「そのほうが人目につかないわ、夜中にこんな格好でうろうろしてたら、かえって危険だわ」 「奥さんがそう言うなら」  会田は、せっかく上げた腰をまた下ろした。梨枝としては、一刻も早く追い出したいところだったが、井沢夫人の目が恐かった。彼女の目に触れたら、絶対に無事にすまない。夫の留守にフーテンまがいの若い男を引っ張り込んだ尻軽妻の噂《うわさ》は、たちまち団地全体に流布するだろう。  夫は、そういうことに寛大ではない。それだけ梨枝を愛している証拠でもあるが、妻を完全に独占しなければ気がすまない。夫婦というものは、相互の(特に夫が妻の)完全な独占の上に成り立つという考えをかたくななまでに固執している。結婚初夜に出血がなかった梨枝をずいぶん疑って、問い糺《ただ》したものである。そんな夫がそんな忌まわしい噂を聞きつけたなら、決して許さないだろう。  間もなく東の空が白んできた。室内もうす明るくなった。玄関口にガサリと音がした。ビクッとした会田を、梨枝は、 「新聞配達よ」となだめた。 「もう死体が発見されて、おれの行方が捜索されはじめているかもしれない」 「新聞、見てみましょうか」  梨枝は玄関のメールボックスから新聞を取ってきて、開いた。 「まだ載っていないわよ」 「ラジオやテレビのほうが早く報道するかもしれない」 「そろそろ朝の一番のニュースがはじまるわ」  梨枝はテレビのスイッチを入れた。だが間もなくはじまったニュースも殺人事件の発生を報じなかった。 「まだ発見されてないのよ」 「よかった」会田は、緊張して怒っていた肩の力を抜いた。 「どうして?」 「犯罪が発覚する前に自首すると、罪が軽くなると聞いたことがあるんだ」  軽くなったところで、尊属殺人は死刑と無期の間なのである。 「そうなの。それじゃあ警察へ行くまで見つからないといいわね」 「無関心族のたまり場みたいなアパートの中だから、大家が家賃でも集めに来ないかぎり見つからないとおもうけど」 「見つからないように祈っているわ」 「奥さん、本当に有難う。今度こそ行くよ」 「そう。じゃあ気をつけてね」 「さようなら」 「さようなら」  二人は手を握り合った。会田の目の奥に光るものがあった。会田を送り出す前に、梨枝は戸口へ出て、周囲の様子をうかがった。団地は明け方の最も快い眠りに落ちているとみえて、近所に人の気配はなかった。井沢家もシンと寝しずまっている。もうあれからだいぶ時間も経っていた。いかに詮索《せんさく》好きの井沢夫人も寝床へ戻ったであろう。 「だいじょうぶよ、いらっしゃい」戸の内側に隠れていた会田を、梨枝は小声で呼んだ。 「さようなら」  会田はもう一度梨枝の耳にささやいて、足音を殺しながら階段を下りて行った。  暁闇《ぎようあん》が未練がましく漂う中に、白い朝霧が流れている。階段の出口で、会田の影がチラリと動いたように見えたが、すぐに霧に呑《の》まれてしまった。  会田が立ち去るのを確かめた梨枝は、家の中へ引き返そうとして、ふと目をやった隣家のドアの覗《のぞ》き窓の目隠しカーテンがかすかに揺れたようにおもった。いや、たしかに揺れていた。  ——見られたんだわ——  全身に逆流するものがあった。やはり井沢夫人は見張っていた。�異形の靴�にきな臭いにおいを嗅《か》ぎ取って、好奇に燃える目で覗き窓からずっと�張り込み�をしていたのだ。 〈どうしよう?〉どうしてよいかわからない。会田を人目を避けて送り出したいまの梨枝の態度は、どう見ても強盗に襲われた被害者のものではなかった。  最もまずいシーンを井沢夫人に目撃された、これでは、彼女ならずとも、不倫の存在を疑うだろう。  強盗に脅迫されたという言い抜けは効かない。会田が帰るときは、すでに人質はいなかったのだ。夫から離婚を言い渡され、近所じゅうから淫乱《いんらん》の妻として嘲笑《ちようしよう》されている自分の姿が瞼《まぶた》に浮かんだ。  ——なんとか陥った落とし穴から脱け出すてだてはないものか——  自衛本能の中で必死に手探りした。手をのばした先の意外に近い所に手ごたえがあった。 「そうだわ。110番して会田を捕まえさせればいいんだわ。これまで子供を人質にされて身動きできなかったけれど、いま犯人が逃げ出したので連絡したと言えば、だれも不審におもわない」  梨枝は、おもいつくと同時に行動をおこした。この場合速ければ速いほど、彼女の保身につながる。 「こちら110番です」  ダイヤルした先に直ちに応答があった。 「強盗が入ったんです。いま逃げ出して行ったところです」 「落ちついて。あなたの名前と住所を言ってください」 「市内希望ガ丘団地、318棟の三階14号室の野崎梨枝といいます」 「野崎りえさんですね、逃げた強盗の特徴は?」 「十八、九歳の一見、ヒッピー風の男です。泥だらけの紺のジャンパーと、青いジーパンを穿《は》いてます。長髪でやせ型の長身、ズックの靴をはいてます」 「パトカーがいまそちらへ向っています。お怪我《けが》はありませんか」 「ありません」      4  梨枝の家から出て朝|靄《もや》の中へ泳ぎだした会田は、三、四回深呼吸した。清々《すがすが》しい空気が不眠の肺を満たした。なぜか疲労は感じなかった。むしろ、今朝が自分の新しい人生への門出のように爽快《そうかい》であった。  それは偶然押し侵《い》った形になったあの家の主婦がしめしてくれた親切によるものである。美しく優しい人妻であった。凶悪な強盗として侵《はい》っていった自分のために食べ物をつくり、風呂までわかしてくれた。さぞ恐かったであろうに、それによく耐え、夜通し話し相手となってくれて、荒《すさ》んだ自分の心を和めてくれた。  彼女は、その親切に増長した無法な要求にも応えて、そっと会田を抱きしめてくれた。彼女の体の暖かく柔らかな感触を忘れることができない。これまであんな風に会田を抱いてくれた者はなかった。あの暖かさは、彼女の心の暖かさであろう。 「あの束の間の感触が、これからのおれの宝物になる」  ——おれにはすばらしい友だちができたんだ——  会田はしだいに明度を増してくる東方の空に向かって胸を張った。もう自分は孤独ではないとおもった。  貴重な友人がくれた、貴重なプレゼントがポケットにある。この金は使えない。彼女の感触といっしょに、形のある宝物として一生大切にしておこう。  会田はポケットに手を入れて、貴重なプレゼントをもう一度確かめようとした。指先に二枚の一万円札があった。 「あれ、おれは一枚だけもらってきたはずだが」  会田は、首を傾げた。疑問はすぐに解けた。いったん全部返したつもりだった金の中で、一万円札が一枚ポケットの底に残っていたのだ。彼がもらったのは、一万円だけである。  ——するとこの一万円は……?——  結局、強盗したことになる。 「返さなければ」会田は、ためらわなかった。せっかく得た貴重な友人を、「一万円」で失ってはならない。  会田は直ちに引き返した。先刻よりだいぶ明るくなっていたが、団地はまだ目ざめていない。階段を上って、彼女の家の前に立った。ブザーを押そうとすると、ドアが細目に開いたままである。会田を送り出したまま、閉め忘れたのであろう。 「無用心だな」会田は、自分が少し前、その無用心につけ込んだのを忘れてつぶやいた。  ——安易にドアを開くものではないと、注意してやろう——  細目に開いたドアの隙間《すきま》から、話し声が聞こえてきた。彼女の声だった。どこかへ電話をかけているらしい。 「強盗が入ったんです、いま逃げ出して行ったところです」 「十八、九歳の一見ヒッピー風の男です。泥だらけの紺のジャンパーと青いジーパン……長髪で、やせ型……」  聞くともなく切れぎれに耳に入ってくる言葉を聞いているうちに、会田の顔色は変っていった。全身が押えようもなく震えてきた。  彼は、夢中をさまようように家の中へ入った。電話機のそばへ寄って行くと、ちょうど電話をかけ終って彼女が振り向いたところであった。  一瞬、梨枝はその場に棒立ちになった。 「奥さん……」  裏切ったな——と会田は、言ったつもりだが、声がかすれて言葉にならない。彼女は自分を裏切ったのではない。人間を裏切ったのだ。 「ちがうのよ、勘ちがいしないで」梨枝は、会田の異常な形相に身の危険を悟った。 「なにがどうちがうんだ?」  会田は言いながらも、自分がいまなにを言っているのかまったく意識していない。ただあるのは、激しい失望感だけであった。落ちて行く。唯一の手がかりを失った心身が、暗黒の奈落へ向かって落ちて行く。 「お願い、話せばわかるわ」  梨枝は恐怖を自衛本能で克服した。いま、パトカーはこちらに向かいつつある。あと少し時間を稼げば、たすかる。  会田は手探りした。落ちていく自分を支えるためである。その指先に、先刻置いた包丁が触れた。  梨枝の目が恐怖に引きつった。友を見る目ではなかった。まるでおぞましい化け物でも見たように、切れ長の優しかった目がゆがんでいた。会田は切っ先を相手に向け、全身の力をこめてぶつかって行った。  彼をやさしく抱いてくれた柔らかく暖かい感触は、いま凶暴に深々と抉《えぐ》られた物体となって、彼に熱い血しぶきをふりかけた。      5  義母を殺害して逃走の途中、団地に押し侵《い》り、夫が出張中の留守を守っていた若い主婦を包丁で刺殺した未成年の自動車組立工は、駆けつけたパトカー警官によって現場で逮捕された。可哀相《かわいそう》な主婦は、心臓を刺されて即死に近い状態で死んだ。  犯人がかねて不仲だった義母を殺した理由は、おおかた推測できたが、まったく無関係の主婦を殺した動機は、かいもくわからなかった。犯人もかたく口をつぐんで語らない。この事件は「動機なき殺人」として、世人に強いショックをあたえた。意見《コメント》を求められた心理学者やその方面の識者は、  ——若い義母との同居生活という異常な環境が、犯人の性格を歪形《わいけい》させ、情動障害(感情的に混乱しやすい状態)におとしいれ、自己統制力を弱め、些細《ささい》なことから衝動的行動に出やすくしていた——  ——都会生活は、欲望の対象に取り囲まれた生活である。美しい女性、おいしい食べ物、豪華な衣装、刺戟《しげき》的な遊び、しかし金がないために、欲望の大海の中で、たった一杯の水も飲めない。夢と現実の差があまりにもありすぎる。この落差の中で、犯人は危険なストレスを蓄えていた。それがかねて不仲の義母との些細な《たぶん》けんかから口火を切られ、義母を殺害し、さらに無辜《むこ》の他人を連続して殺害するという凶悪な行動に駆り立てた。  もし逮捕されなかったならば、ストレスの堰《せき》を切ったなだれ現象のようにさらに多くの凶行を重ねたかもしれない、などと語った。  地検から事件の送致をうけた家庭裁判所は、観護措置決定をもって犯人を少年鑑別所に送り、鑑別依頼をした。少年鑑別所の鑑別意見および調査官の生活記録によって家庭裁判所は、刑事処分を相当と認め、決定をもって地検に逆送してきた。  事件の逆送をうけた地検では、尊属殺人罪および殺人罪で起訴した。犯人は罪を犯したとき十八歳に達していたので、少年法五十一条により死刑の対象にもなる。公判がはじまった。弁護士は、客観的資料も揃《そろ》っているので争わなかった。証拠調べが終り、犯罪が証明された。検事は論告において死刑を求刑した。 [#改ページ]   青の魔性      1  私は、�普通《なみ》の女性�に興味をもてない男である。べつに肉体的な欠陥や精神的な障碍《しようがい》があるわけではない。それは、私がある少女に、「取り憑《つ》かれて」しまったからである。その少女は、言葉どおり、私に取り憑いた。私にとって、異性は、その少女以外にない。美しい女性や、性的魅力満点の女が身辺に来ても、いつもあの少女のおもかげがオーバーラップしてしまう。  普通の女性(成人の女)と性交渉をもったこともある。だが、彼女らはすべて、あの少女の�代役�にしかすぎなかった。あの少女は、いついかなるときも、いずこにいても、私の心身を支配している。彼女は、私にとって「たった一人の女」だった。  私には幼ないころ、妹がいたそうだ。「そうだ」というのは、私自身の記憶も曖昧《あいまい》だからである。私が四歳、妹が二歳半のとき、私は妹の手を引いて近所の角にある駄菓子《だがし》屋に買い食いに行った。それぞれに気に入った駄菓子を買って店を出たとき、角を曲がってバスが来た。  前輪は躱《かわ》した。だが私の外側を歩いていた妹が後輪に引っかかった。幼ない私たちは、車がカーブでは、後車輪が前車輪より内側を通ることを知らなかった。小さい私たちは、運転手の死角にいた。悲鳴は事故を目撃した大人の口からあがった。人々が駆けつけて来たとき、私は、押し潰《つぶ》されたまんじゅうの餡《あん》のように内臓をはみ出した妹の死体を、無心に手でこねまわしていたそうだ。  それが私の幼時体験である。もちろんはっきりした記憶はないが、それが意識下に蓄えられていて、少女に取り憑かれる素地をつくっていたのかもしれない。  あの少女に、私が取り憑かれたのは、いまから、二年前の春だった。  私は当時、埼玉県K市のある小学校の教師をしていた。私が、あの少女「反町恭子《そりまちきようこ》」に出会ったのは、六年生の一学級を担任したときである。もちろんそれ以前も、反町恭子がその学校にいることは知っていた。  ひかえめな少女で、特に教師たちの間で話題になることもない、どちらかというと平凡な生徒だった。家庭も、ごくありふれた中流サラリーマンである。仲のいい友人もないらしく、クラスから離れて、シンと自分一人の世界に閉じこもっているようなところがあった。  だが、いつも人と目が合わないようにうつむけている面に注意してみると、だれに見られることもなく深山にひっそり咲いている高山植物のような、気品のある美しさを沈めていた。それは、人を寄せつけない拒絶的な美貌《びぼう》であり、じっと見つめないとわからない、深所からにじみ出てくるような、ワンクッション隔てた魅力であった。  成績も、特によいということはない。中の中から上のあたりにかけて、波動している。クラス会やクラブ活動でも、活発に動かない。いつも他の生徒のかげに隠れるようにしていた。  小学校から中学校にかけては、成績の優秀な生徒や運動の得意な生徒が、スターになる。特に小学校では、学科がよくできる者は、たいてい運動も上手で、いわゆるオールラウンドプレイヤーとして、花形になるケースが多い。  それを親は、錯覚して、「天才」とか「神童」とおもいこみがちだが、要するに少し早熟なだけにすぎない。早熟な生徒は、なにをするにしても、同年輩の仲間より要領がいいのでいかにも優秀に見えるのである。  そういう意味では、反町恭子はまったく優秀ではなかった。地味な存在は、いつでも派手な存在に圧倒されてしまう。  だが、私は、以前、恭子を担任した仲間の教師が、 「あの生徒には、無気味なところがある」と話しているのを聞いたことがあった。 「どこが無気味なのか?」と私は質《たず》ねなおした。 「�父を語る�という作文を書かせたんだ。そうしたら、実に克明に父親を観察している。子供にわからないとおもって、子供の前で交わした�夫婦の会話�までちゃんと分析している。まことに意地の悪い目で父親を見ているんだが、あれは子供の目じゃないね、いや人間の目じゃない。精巧なレンズみたいだ。文章もずば抜けている。おとなでもなかなかあれだけのものは書けない。あの冷徹な目で、おれの授業を観察されているのかとおもったら、ゾッとしたね」 「国語の成績は、いいのか?」 「それが特によくはないんだ。どっちかというと悪いほうだな」  そのときは、それだけの会話で終った。ところがその後、図画担当の女教師が、同じ様なことを言った。静物の素描に花をスケッチさせると、人間の頭蓋骨《ずがいこつ》のようなものばかりを描く。  図画教師は、最初恭子がふざけているのかとおもったそうだ。ところがそれから二か月ほどは、なにを描かせても、髑髏《どくろ》のような図柄ばかり描く。恭子を一人だけ呼んで、わけを聞くと、「手が勝手に描いてしまうんです。頭でいくら花を描けと命令しても、手のほうが勝手に動いてしまうんです」と答えた。  教師は、これは自閉症の一つの症状に似ているとおもい、保護者に専門医への相談を勧めようと考えているうちに、いつの間にか癒《なお》ってしまったそうである。 「あの子の内部には、なにか屈折したものがあるとおもいますわ。だれにも覗《のぞ》かせない不可解な内面世界が。これがうまく発展すると、将来、凄《すご》い芸術家になるかもしれない」  図画の教師は、つけ加えた。  その反町恭子を、私は六年の学級で担任することになった。だから彼女については、「一風、変った生徒」としての先入観があった。  初めての授業のとき、私が新任の挨拶《あいさつ》をすると、恭子は、それまでうつむけていた面を上げて、射るような視線を、私の方へ注いできた。それは冷たく澄んだ一筋の光の箭《や》のように、クラスの一角から一直線に射ちこまれてきた。私は彼女に見つめられた顔の部分に痛みを感じたほどである。  この一瞬に、私は反町恭子に取り憑かれてしまったといってよい。恭子の視線を意識して私の新しいクラスでの最初の授業は、しどろもどろになってしまった。  恭子を担任した私は、さりげなく、しかし熱心に彼女を観察した。一見、恭子は普通の生徒と変っていないようであった。だが、授業中、彼女は、ふいと放心してしまうことがある。  そんなとき澄んだ秋の日射しのような彼女の視線から、熱感が失われ、焦点がかすんでしまう。たしかにこちらを見ていながら、彼女の目は、私を越えてはるか遠方に向けられている。それは普通の距離の尺度では測れない、途方もない遠方をみているような視線だった。  私は、彼女のみつめている遠方に嫉妬《しつと》した。この教室にいながら、反町恭子の精神は、次元のちがう場所に翔《と》んでいる。それはなんぴとも追随できない遠方である。  私は、自分の嫉妬を、彼女にふいに質問することによって癒《いや》そうとした。質問によって、強制的に私の前へ引きずり戻すのだ。  ふいに当てられた恭子は、的確ではないにしても、それほど的はずれではない答えをした。だが彼女の視線は、依然として遠方に遊弋《ゆうよく》したままである。  それが私には、本隊を遠方へ派遣して留守を守っているわずかな手勢が、かるくいなしたように感じられた。所詮《しよせん》、彼女の全部を私の前へ引き戻すのは、無理なのではないか。恭子の遠い目を見ていると、私はそんな腹だたしさとあきらめをおぼえた。  私が担任した六年五組は、どういうわけか女生徒がクラスの三分の二を占めていた。それだけでなく、学年全体で、特によくできる女生徒が、私のクラスに集中した。それに反して男生徒は、数のうえで劣勢に立つだけでなく、おとなしい生徒ばかりが来た。  そのために、圧倒的に�女上位�のクラスとなってしまった。五人の学級委員も、四人まで女生徒が占め、男生徒は、女生徒の前では顔も満足にあげられないくらいに萎縮《いしゆく》した。  男の教師として、私はそれを歯がゆくおもい、何度も男生徒に気合いをかけ、授業においても精々、男生徒を指名するようにしたのだが、いかんせん、学業成績や運動においても、女生徒が圧倒的上位を占めている。とにかく各クラスのスタークラスが五組に集中したところへ、おとなしい男生徒ばかりが恐る恐る�居候《いそうろう》�しているような状況であるから、私がいくら気合いをかけたところで、女上位を覆すのは、無理であった。  男生徒の萎縮は、私の知らない所で、恐るべき弊害をつくっていた。担任した当初は、私は、自分のクラスで、そのような陰湿で、凄惨《せいさん》な�私刑《リンチ》�が行われていることを知らなかった。  それを知ったのは、一学期も末の暑い夏の日である。夏休みまであといく日もなかった。  担任して三か月以上も気がつかなかったのだから、迂闊《うかつ》とそしられてもしかたがない。だがそれほどに彼女らの手口は、巧妙だったのである。女生徒に完全に押えつけられた男生徒たちは、見て見ぬ振りをしていた。情けない話だが、男生徒たちは、事実を知りながら、一人として私に告げに来る勇気をもっていなかったのである。  この事件を語る前に、この事件をきっかけにして、次々に露《あら》わされた六年五組の陰惨な私刑について、私はまず話そうとおもう。      2  いまおもいおこしても、女とは、実に陰湿な動物であるとおもう。しかもそれが成人の女性に起きたことではなく、いかにも天真爛漫《てんしんらんまん》な少女たちによって惹《ひ》き起されただけに、彼女らのあどけない仮面の下に潜《ひそ》む、�稚《おさな》い悪性�とも言うべきものに、慄然《りつぜん》とするのである。  稚いだけに、なんの加工も糖衣もかけられていないむきだしの悪さだ。  私刑の対象にされたのは、反町恭子である。六年生のオールスターともいうべき五組の女生徒にとって、恭子の水底に沈んだ美しいもののようなミステリアスな雰囲気が、無気味だったのであろう。正体のわかっているものには、対処のしようがわかる。だが、まったく何を考えているのか見当もつかない恭子に、五組の女生徒たちは、馬鹿にされているように感じたのだという。  実際、クラスから孤立して、ひとりシンと自分の中に閉じこもっている恭子は、教師の目にも取りつくしまもない拒絶の姿に映った。  クラスの�女王�は、市会議員の娘で長井悦子という生徒であった。父親は市内随一の百貨店を経営しており、市会議員として市政にも強い権勢をふるっている。  長井悦子は、大柄の花やかな面立《おもだ》ちをしている。席次も常に学年全体で男生徒をしのいでトップを占め、運動もバレーボール部の主将をつとめている。さらにエリート以外は入部できないリズムクラブ(鼓笛隊のこと)のリーダーでもある。  父親の財力をバックに、選《え》り抜きの家庭教師をつけ、�補助学用品�としてありとあらゆるものをそろえている。たとえば百科事典は、小学生用の他に、世界大百科やブリタニカまで備えている。  その他、リンガフォン、ステレオ、ビデオレコーダー、テープレコーダー、卓上電子計算機、ピアノ、その他の楽器が、彼女の勉強部屋を埋めているのだ。要するに、欲しいものはなんでも手に入る身分だった。  これだけ金に飽かせて、教育環境をととのえれば、だれでもよい成績を取れるというかげ口がないでもなかったが、悦子に優秀な素質があったことも確かである。素質が、恵まれた環境によってさらに引き伸ばされたと言えよう。  学校のめぼしい特殊教材も、ほとんどすべて悦子の父親から寄付されたものだった。  小学校において、教師に対する父兄の影響力は、無視できない。PTAの会長でもあり、社会教育委員として、市教委にも強い発言力をもっている長井悦子の父親は、教師にもこわもてする存在だった。  ただでさえも注目の的となる素地をもっているところへ、花やかなおもだちと、すでに「年ごろの女性」と見まがうばかりによく発達した悦子の肢体は、男の教師の目にもまぶしく映るほどであった。  その名実共に女王の長井悦子が、猛烈に反町恭子をライバル視するようになった。そのきっかけは、恭子がある大手新聞社が主催した、「全国小学生作文コンクール」に秘《ひそ》かに応募して、最優秀賞を獲《と》ったことである。  このおもわざる顕彰によって、恭子は全国の注目の的となった。これが女王の逆鱗《げきりん》に触れたのである。  もともと自閉的な恭子に、悦子はよい感情をもっていなかった。それが一人しかいない「全校一」の悦子をしのいで、「全国一」となった。  最初悦子は、歯牙《しが》にもかけない振りをした。だが彼女の心中の沸騰は、隠そうとするほどに面に表われてしまった。  悦子におもねって、親衛隊の一人が、恭子の作文は「だれかおとなに書いてもらったものだ」と言いだした。 「そうだわ、きっとそうにちがいないわ。あの人にあんな作文書けるはずないもの」  直ちに、同調する者が現われた。 「本当にそうだとしたら、放っておくべきじゃないわ。クラス全体の、いえ全校の恥だわ。この問題は、徹底的に調べるべきよ」 「反町さんに聞いてみましょう」 「ただ聞いたって、本当のことを答えるもんですか。裁判にかけたらどう?」 「裁判?」 「クラス全部で、裁判を開くのよ。そうしたら、あの人も本当のことを白状するかもしれないわ」  いつの間にか親衛隊の間で、そんな話がもち上がり、女生徒全体の気運になっていった。明らかに彼女らは、長井悦子の顔色を読みながら、裁判の話をもちだしたのだ。  悦子は、 「私、人を裁くなんていやだわ」  と言いながらも、生徒主催の裁判に大乗気《おおのりき》であった。結局、「クラス全体の意志」ということで、反町恭子の裁判が行われることになった。それは実は、長井悦子の�個人的意志�であった。男生徒など彼女にとっていないに等しかった。  第一回の(一回だけであるが)�公判�は、ある日の放課後、悦子の勉強部屋で開かれた。  裁判長は悦子がつとめ、検事も弁護士も、彼女の親衛隊である。悦子はこの裁判のために、法廷手続きの簡単な勉強をしたのである。  当日、放課後になると、悦子の勉強部屋に親衛隊が全員集まった。�被告人�の恭子も無理矢理に引っ張って来られた。 「起立!」  廷吏《ていり》役の男生徒が号令をかける。 「被告人、立ちなさい」  裁判長席のデクスの前に坐《すわ》った悦子が、もったいぶった声をだした。 「名前は?」  よく知っているくせに、訊《たず》ねる。 「被告人はこの法廷で聞かれたことに対して答えたくないことは、無理に答える必要はありません。また言いたいことは、自由に言ってよいのです。けれどもあなたの言葉は、有利にも不利にも証拠になることがあります」  と型どおり、黙秘権を告知した。次に検察官役の村川ひとみが立って、起訴状を朗読した。 「被告人は、昭和四十×年度、毎朝新聞主催の全国小学生作文コンクールに応募して、最優秀賞を獲得しましたが、この作文はおとなに書いてもらったものを、被告人がいかにも自分で書いたように偽って、応募したものです。このことは私たちのクラスだけの恥ではなく、私たちの学校の名誉を汚すものであります。したがって被告人は潔《いさぎよ》く罪を認め、みんなの前で謝罪すべきだと考えます」  村川ひとみが起訴状を読み上げるのを、恭子は、無表情に聞いていた。聞いているのかいないのかわからない、まったくの無反応であった。 「いまの起訴状に対して、弁護人の意見を言いなさい」  悦子が弁護人役の山内時子をうながした。 「起訴状の事実を認めます。けれども、被告人は、応募するときに、まさかその作文が一位になるとはおもわなかったのではないでしょうか。軽い気持で応募したのが、一位になってしまって、いまさらおとなの人に書いてもらったと言えなくなったのだとおもいます。ですから、弁護人としては、被告人の行為に悪意はなく、みんなの前で謝罪をしたら、罪を許してやりたいと考えます。どうか裁判長をはじめ、みなさんの寛大なご考慮をお願いします」  山内時子が陳述を終えると、悦子は恭子に向って、 「被告人は、潔く罪を認めて謝罪しますか」  と言った。 「いいえ、謝罪しません」  恭子は、はっきりと言った。面に初めて、かすかな表情が動いた。 「被告人は、罪を認めないのね」 「私、なんの罪も犯していません。あの作文は、私自身が書いたもので、だれに書いてもらったものでもなければ、手伝ってももらいません」 「お黙り! あんな上手な作文を書けるはずがないわ。あれはおとなの文章よ」  村川ひとみが言った。 「そのおとなの人って、だれですか?」 「…………」  村川ひとみが詰った。 「証拠もなくて、変なことを言わないでください」 「証拠はあるわ」 「それは何なの?」 「あの作文よ。あれは絶対に六年生に書ける文章じゃないわ」 「でも私が書いたのよ」  さすがに恭子は口惜《くや》しげに唇をかんだ。 「じゃあ、みんなに聞いてみるといいわ。あの作文が六年生に書けるとおもう人、手を挙げて」  だれも挙げなかった。 「じゃあ書けないとおもう人、手を挙げて」  ほとんど全員が手を挙げた。山内時子だけが挙げなかったので、村川ひとみが、 「あなた書けるとおもうの? さっきは手を挙げなかったじゃないの、いったいどっちなのよ」 「私、いまふっと考えたんだけど、悦子さんなら書けるかもしれないわ」 「そうね、悦子さんならきっと書けるわね」  ひとみがうなずくと、他の女生徒が、 「でも、あれは悦子さんが応募したんじゃないわ」 「悦子さん、まさかあなたが恭子さんのために書いてあげたり、手伝ってやったんじゃないでしょうね」  時子がおもねるように悦子の顔を見た。 「いいえ」悦子が首を振った。 「裁判長、この辺で、判決を出してください」  ひとみが言った。 「それでは決を取ります。全員、この用紙に有罪か無罪か記入してください」  恭子を除いて配られた紙片《カード》に、めいめいが記入をする。山内時子が紙片を集めた。 「それでは、読み上げます」  悦子が、カードを一枚一枚読み上げる。 「有罪」 「有罪」 「有罪」  すべてのカードが有罪であった。 「それでは判決を言い渡します」悦子ができるだけ荘重な口調で、 「被告人は二十対ゼロで有罪。被告人は罰として、当分の間、クラス全員から�なかま�にされます。クラスの者は、被告人に口をきいてはいけません。これに違反した者は、一回十円の罰金を徴収します。当裁判所は、これにて閉廷します」  悦子が軽くデスクを握りこぶしで打って、裁判は終った。 「なかまにする」とは彼らの言葉で、クラスの村八分にすることを意味する。このときから恭子に対する凄《すさ》まじい�クラス八分�は、はじまった。もともと反町恭子は孤独な存在だった。�クラス八分�にするに最もふさわしい条件を備えていたのである。  いまの子供にとって、十円くらいの罰金は、なんでもない。生徒が恐れたのは、罰金ではなくて、タブーを破ることによって、悦子ににらまれることであった。  悦子によって、恭子同様の�クラス八分�にあったら、学校へ来られなくなる。女生徒いや男生徒も含めて、悦子に認められ、その親衛隊として、彼女の家に出入りを許されるのは、最高の名誉であった。  女王が起居する�王宮�の中に招じ入れられて、いままで食べたこともないようなお菓子を出され、見たこともない�補助教材�を貸してもらえる。その特権を剥奪《はくだつ》されないためにも、クラスは、悦子の発した禁令《タブー》を守った。  一度、一人の男生徒が、ついうっかりして禁令を破り、恭子に話しかけたことがあった。  その日から彼は、男生徒からも�クラス八分�にされてしまったのである。      3  執拗《しつよう》な�クラス八分�は、一か月ほどつづいた。しかし、反町恭子にとってはあまりこたえないようだった。以前から、クラスの中で孤立していたので、改めて�クラス八分�にされても、孤立化が延長しただけで、どうということはないらしい。  恭子の平然たる無表情が、悦子の癇《かん》にますますさわった。悦子には、自分が言い渡した判決を、恭子がせせら笑っているように見えた。 「恭子のやつ、一度、グウという目にあわせてやらなくちゃ」  悦子は、恭子の無表情の面皮を引き剥《は》がして、普通の女の子のように、泣きわめかせてやりたかった。そして、考えあぐねた末に一計を案じた。  彼女は、その計画を実行するために、親衛隊の男の生徒を一人、自分の勉強部屋へ呼び寄せた。女王から、一人だけその�居室�へ招き入れられた男生徒は、すっかり感激してしまった。  悦子は、彼に、自分の計画を話した。それを聞いてさすがに男生徒もためらいの色を見せた。 「もしきみが、私のリクエストを聞いてくれたら、これからずっとつき合ってあげるわよ。中学へ行ってからも、つき合ってあげるかもよ」 「中学へ行ってからも。本当かい?」  男生徒は、目を輝かした。 「本当よ。でもこのことは、きみと私だけの秘密よ」 「大丈夫だよ。約束する」 「引き受けてくれるのね」 「うん、引き受けた」 「万一、見つかっても、私は知らないわよ。きみの責任で、すべてやってくれなければ、だめよ」 「見つかるようなヘマはしないさ」 「でしょうね、だから大勢の中からきみを選んだのよ。きみは頼もしいわ」  悦子にじっとみつめられて、男の生徒は、心から忠誠《ロイヤリテイ》を誓った。  事件は、それから数日後に起きた。四時間めの授業が終って、給食時間になる前であった。手を洗って、自分の席へ帰って来た恭子は、さっき授業が終ったときしまったはずの筆箱が机の上に出ていたので、なにげなく机の蓋《ふた》を開いた。  一瞬、彼女は全身の血がさあーっと音をたてて退《ひ》いたように感じた。筆箱が置いてあったスペースに、一匹の大きなドブネズミの死骸《しがい》が入っていたのである。腐りかけて、爛《ただ》れた肉の間から粉をまぶしたようにウジが湧《わ》いている。  臭気《しゆうき》が鼻を襲った。吐き気がのどの奥から突き上げてきた。  だが恭子は、机の蓋をパタンと閉ざすと、目をつむって、こみ上げる吐き気を抑えた。遠くの方から、悦子と、ネズミを仕掛けた男の生徒がこの様を息をひそめるようにして見守っていた。  恭子の面は、紙のように白くなった。だが彼女は、ネズミの死骸を納めた机の上で給食を食べたのである。  彼女は、パンを頬張《ほおば》りながら、目尻《めじり》からポロポロと涙をこぼした。そのころすでに恭子の虜《とりこ》になっていた私は、彼女の異常に気づいた。私は彼女のそばへ行って、どうしたのかとたずねた。  恭子は、首を振って、「なんでもありません」と答えた。そのとき私は、彼女の机の中にネズミの死骸が入っていることを見破れなかった。蓋によって辛うじて遮断したその臭気にすら気がつかなかった。  彼女は、給食の後、トイレに行って食べたばかりのものをすべて吐いてしまった。それらの事実を後になって、彼女の母親から、私は聞いたのである。 「ドブネズミ事件」は、結局、長井悦子の負けになった。悦子の狙《ねら》ったように、恭子を泣きわめかせることができなかったからである。一瞬、恭子の頬を伝った涙も、悦子の死角に入っていた。  放課後、恭子はネズミの死骸をビニール袋にいれて、学校の塵芥《じんかい》焼却炉の中へいとも無造作に投げこんでしまった。  この事件によって、悦子は、ますます意地になった。なんとしてでも恭子に「まいった」と言わせなければ、腹の虫がおさまらないおもいだった。  夏休みが近づいてきた。小学生最後の夏休みとして、生徒たちは、それぞれの夢を寄せていた。中学へ行くと、これまでのようにのんびりできない。小学生は、文字のとおり「子供」である。中学へ進めば「中人」として扱われる。大人と子供の中間にはさまれて、これまでのようにはいかないぞという覚悟を、生徒たちは、それぞれの胸の中でしていたのである。  それだけに、�子供の時代�の最後の夏休みに託した彼らの夢は、ファンタスティックであった。  今年は空《から》梅雨《つゆ》で、七月の初めから暑いかんかん照りがつづいた。六年五組は、「表校舎」の最上階の西の棟末にある。眺めはよいが、午後になると、西日を受けて、校舎で最も暑い教室になる。そのために午後の授業は、はなはだ能率が上がらなくなる。  私は、夏の暑い間だけ短縮授業ができないものか校長に相談したが、今年は例年になく早く夏がきてしまったので、今年だけ短縮授業を早めるというのは無理らしい。  そのために私は、だらけがちな生徒を、励ましながら、暑い教室で授業をつづけていた。事件は、そんな日に起きた。この事件の記述は、私が後から調べたものである。  その日、私はよんどころない私用で、早退した。その日は、午後も二時間、授業があった。あいにく私の早退をカバーするための代りの教師がいなかった。そんなときは、生徒も早く帰したほうがよいとおもうのだが、教師の都合のために子供を早帰りさせたとなると、たちまちPTAや市教委から突き上げられるので、私のクラスは自習となった。  教師がいても、だらけがちの午後の時間である。教師のいない夏の暑い午後の教室で、言われたとおりに、まともに教科書を開いている生徒はいなかった。  おしゃべりをしている者、マンガ本を広げている者、追いかけっこをしている者、またボンヤリと窓の外を見ている者、てんでに勝手な真似《まね》をしていた。  反町恭子も、机にもたれてボンヤリと窓の外の景色を見ていた。日がギラギラと輝いている。遠方の山がうす青くかすんで、地平と溶け合っている。空はよく晴れ渡っているのだが、あまりに明るすぎて、白く濁っている感じである。地平線に、地熱によって沸騰されたエネルギーの塊りのように積雲《わたぐも》が頭をもたげている。  恭子は、そんな雲を見るのが好きだった。雲は、一瞬も同じ形を留《とど》めずに、虚空《こくう》を移動し、発展し、消長しながらも、しかもいつ見ても、「雲の形」をしている。恭子は雲は、「夢の形」だとおもった。どんな夢を託してもよいし、託した夢を象徴してくれる。  恭子は、綿のような積雲には、いつも異邦への夢をそそられる。あの高い雲の峰のかなたに、美しい未知の外国があるのだわ。どういうわけか、入道雲はロシヤ、カナトコ雲はアメリカの西部をおもわせる。好天の高所に浮ぶ層雲《きりぐも》や、糸雲を見つめていると、詩をつくりたくなる。草原に寝転んで、鳥の羽毛がもつれたような絹雲を眺めていると、自分自身が空中に浮んでいるような気がしてくる。  恭子は、窓の遠望にプラチナのように輝く雲の頭にとりとめもない想像を寄せていた。  各教室の前には、テラスが付いている。テラスへ出ることはいちおう禁じられているが、六年生になると、そんな禁制を守る者はいない。恭子は雲を窓越しに眺めているうちに、ふとテラスへ出たくなった。クラスを見ると、みなそれぞれのことに夢中で、彼女の方に注意している者はない。もともと�クラス八分�を受けている身だから、みなから疎外されているのだ。  恭子は、テラスへ出た。コンクリートのテラスの床は、太陽の直射をうけて、素足では踏めないほどに焦げている。鉄製の手すりは、うっかり触れると、火傷《やけど》しそうである。  テラスに立つと、いっそうに空が熱っぽく見えた。空間に光が氾濫《はんらん》している。校庭に人影はない。熱く焼け爛《ただ》れたその白茶けた大地から、熱風が吹きつけてきた。くらくらするような暑さがテラスにわだかまっていた。  恭子が教室へ戻ろうとして、身体をまわしかけたとき、背後にガチャリと金属音がした。ハッとして振りかえると、長井悦子がテラスへの出入口のドアを閉めて、鍵《かぎ》をかけたところだった。  恭子はびっくりして、出入口の所へ戻った。 「開けて。開けてちょうだい」  恭子は中に向って言った。 「テラスへ出ては、いけないはずよ」  中から悦子が勝ち誇ったように言った。 「ごめんなさい。ついうっかり出てしまったのよ。ねえ、中へ入れてちょうだい」 「だめよ。私は、開けてあげたいけど、クラス全体が決めたことなの。規則を破った人は、有罪だわ」 「そうよ、有罪よ」 「有罪!」  悦子のまわりで、親衛隊がおもしろそうにはやしたてる。男生徒たちは、見て見ぬ振りをしていた。 「お願い、許して」  恭子は、暑熱で頭がクラクラしてきた。 「ねえ、みんなどうする?」  悦子が親衛隊の顔を見まわした。 「だめよ。そんなにあっさり許したら、しめしがつかないわ」 「何のための裁判なのよ」  村川ひとみと山内時子が唇を尖《とが》らせた。悦子の意図を読んで迎合しているのだ。 「だめだわ。私一人ではどうにもならないの」  悦子は、精々、気の毒げな表情を造って、首を振った。 「どうしたらいいの?」  恭子は、途方に暮れた。 「そうね、そのテラスから下に向って、大きな声で、私はテラスへ出ました。規則を破って申しわけありません。もう出ませんから、中へ入れてくださいと叫ぶのね、そうしたら、だれか救《たす》けに来てくれるかもしれないわ」 「そんなことできないわ」 「だったら、しばらくそこにいるといいわ」  悦子は、唇の一方の端を吊《つ》り上げるようにして笑うと、 「さあ、みんな一生懸命自習をしましょう。もうすぐ卒業なのよ。時間を無駄にしてはいけないわ」  親衛隊に顎《あご》をしゃくると、涼しい自席の方へ行ってしまった。  テラスと教室の連絡ドアは、教室の後部に一か所ある。最近、学校荒らしが増えたので、そのドアには、頑丈な半月錠《クレセント》が取り付けられてある。悦子はそれを下ろしてしまった。  窓は開いているが、テラスの床が教室より一段低くなっているために、恭子の首あたりの高さになる。女の子がそれをまたぎ越すことはできない。やってやれないことはないだろうが、クラス全員が見ている前で、そんな恥ずかしい真似《まね》は、死んでもできなかった。  恭子の全身から汗が吹き出てきた。吹き出るそばから蒸発して、皮膚に塩をこびりつかせる。  午後の最も得意な一角に位置をしめた太陽は、凶器のような直射光を、恭子に向けて集中してくる。テラスにはそれを遮るもののかげ一つない。  連絡ドアを閉じられたので、空気の通路が遮断されて、暑熱がいっそうに沈澱《ちんでん》した。ハケ口を失った直射日光は、�熱圧�とも言うべき圧力を強めて、恭子の無抵抗の身体を押し包んだ。まるでフライパンの底で、炒《い》られているようであった。  汗が目に入って視野がかすんだ。つい、さっきまで優雅な「夢の形」に見えた雲も、凶暴な熱を孕《はら》んだ悪意の塊りになって殺到する。  大地がぐらぐら揺れた。空がゆがんで見えた。 「お願い、中へ入れて」  恭子はドアを叩《たた》いた。拳《こぶし》が痛くなった。全身の力をこめて、押してもみた。しかしスチールのドアは、びくともしない。身体を激しく動かすほどに、体力の消耗はひどくなる。錠を下ろした内部では、クラス全員が恭子の声が聞えない振りをして、言葉どおり涼しい顔をして、�自習�をしている。  近くの教室は、授業が終って、先生も生徒もいない。校庭に人影は見えない。恭子の懇願の声は、とても職員室まで届かない。救いを求めて絶叫するような真似は、とても彼女にはできない。それができないのを見越してのリンチだった。  もう汗も出なくなった。身体じゅうの水分が蒸発してしまったらしい。熱感もあまりなくなった。代って、倦怠《けんたい》感が心身を支配してきた。どうなってもいいような、投げやりの気分であった。  風景全体に瀰漫《びまん》して見えた白濁した明るさが、自分を中心にして凝縮されてきたような気がする。暑熱が獲物に止《とど》めを刺そうとして包囲の輪を縮めてきたのだ。  恭子は、ドアのそばにうずくまった。急に外界が遠のいていくようだった。歪《ゆが》みながらも、それぞれの形を辛うじて保っていた視野の中の空や雲や大地や家や森が、白い渦となって回転しながら、意識にうがたれた抜け穴から漏斗《じようご》状に遠ざかって行った。      4  なんとなく様子がおかしいので、六年五組の教室を覗《のぞ》いた週番教師によって、テラスで意識を失った恭子は発見された。強烈な直射日光を浴びて、急性の日射病をおこしていた。こうして恭子に対する五組の�クラス八分�は表に露《あら》われた。  週番教師から事情を聞いた私は、クラス全員を一人ずつ呼んで厳重に調べた。最初は頑《かたく》なに口をつぐんでいた生徒たちも、長井悦子が白状してから、次々に口がほぐれた。ボスが口を割ったので、親衛隊の口にかけられた錠もはずされたのである。  だが、かんじんの恭子は、いっさい黙秘していた。涼しい日かげで休ませて手当てをしたので、間もなく症状は去ったが、心にうけた傷は、簡単には癒《なお》りそうもなかった。  私は、小学生にしてはあまりにやり口が陰湿なので、悦子と恭子の両親に注意することにした。  いかに悦子の父親が町の有力者であっても、子供がこんな事件を起したのを伏せておくことはできなかった。恭子の両親が騒ぎだして、新聞社に投書でもされると、厄介である。  さすがに悦子の父親は仰天した。有力者だけに、自分の保身をすぐに考えたらしい。恭子の親に丁重に詫《わ》びを言って、もう身体的にはすっかり元気になっている恭子を、悦子を連れてその自宅に見舞った。  恭子の親は、私が案じていたほど気にしていなかった。彼女の母親は、 「あの子は、小さいころから変っていたのです。ちょっと叱《しか》ったぐらいで、すぐに家出をしてしまうのです。あの子が小学校一年のころ、父親がお兄ちゃんだけ連れて旅行へ行きましたところ、後から一人で追いかけて行って、とんでもない遠方の駅に保護されたことがございますの。今度のこともきっとあの子のわがままから出たのだとおもいますわ」  と、謝りに来た悦子の父親にかえって恐縮した。この事件は、いちおうこれで落着した。  私は、これをきっかけにして、恭子の母親の綾子《あやこ》と親しく往来するようになった。「親しく往来」と言っても、恭子を間にはさんでの、あくまでも教師と、教え子の母親という形においてである。  私は、この機会に恭子の家庭環境をよく調べて、彼女の心の屈折を取り除いてやりたいとおもった。  今度のクラス村八分事件は、長井悦子が主謀者であったが、恭子自身にもクラス全体から反感をもたれるような素因があったのだ。  これを矯《なお》してやらないと、社会生活ができないのではないか。学校にいる間は、自閉の姿勢も許される。だが社会に出たら、周囲との協調を拒むわけにはいかない。  いったい何が、反町恭子をして、自らの中に閉じこめてしまったのか? 「奥さん、お宅では、恭子さんのお兄さんだけを偏愛しているということはありませんか?」  私は、母親の綾子に聞いた。両親の、きょうだいに対する差別が、子供の性格を歪めることが多い。恭子には、二歳上の兄が一人いる。 「いいえ、そんなことは決してありません。あの家出事件があってから、特にあの子には、気を遣うようにしています。むしろ差別されているのは、兄のほうですわ。でも兄のほうは、まことに外向的な性格で、お友だちも多くて、恭子とはまるで正反対なのです。親の私にも、恭子は、いったい何を考えているのかまったくわからなくて、気味悪くなることがありますの」  綾子は、眉《まゆ》を曇らせて言った。だれの目にも恭子の母親と一目でわかるほど、おもざしがよく似通っている。だが、恭子は、未熟な硬さの中に沈められた青い美しさであるのに対して、綾子には、成熟した女の、十分開花した濃厚な色香《いろか》があった。  恭子の、水底に遠ざけられたようなミステリアスな美しさではなく、なんのスクリーンもおかずに直接にぶつかってくる、具体的な女の蠱惑《こわく》である。  手をさしのべても触れられぬ美しい星が、恭子であれば、一触即落の盛花が綾子だった。そしてどちらにも幹を同じにする相似がある。  私は独身の健康な男だった。綾子の中にある、具体的な「女」に感じないわけにはいかなかった。私は、恭子の青い美しさに取り憑《つ》かれていた。綾子と往来するようになってから、その事実を実感として受け止めた。  だが、恭子は、空腹でも、口にすることのできないなまの食べ物である。私は、腹をすかしていた。そして私の口の前に、すぐにも食べられるように綾子の無防備な身体があった。教師だから、安心しているのであろうか? しかし私には彼女が誘いをかけているようにおもわれてならなかった。  このままいけば、必ず近いうちに、教え子の母親と教師としての垣根を越えてしまう。厄介なことになる予感がしきりにした。いまのうちに遠ざかったほうが安全だという声が、胸の内に聞えた。それでいながら私は、渦に引きこまれるように、ますます綾子へ近づいていったのだ。 「ご主人は、お勤めでしたね」 「はい、銀行員ですの」彼女はある有名な銀行の名前を言って、 「昨年、S市の支店に転勤になりまして、住宅事情が悪くて、単身赴任しております」 「それは、お寂しいことでしょう」 「毎土曜日には帰って来ますが、主人は仕事一辺倒の人間でしょう。たまに帰って来ても、全然愛想がないんですのよ。この体もてあましてしまうことがありますわ」  綾子は、チラリと流し目に、私を見た。私の胸の動悸《どうき》は、相手に悟られるかとおもうほどに高くなった。彼女は、私に謎《なぞ》をかけているのだろうか? 「ご主人の不在が、お子さんの心を屈折させているようなことはありませんか」  私は、精いっぱい教師としての表情と態度を造って聞いた。 「さあ、そんなことはないとおもいますけど。あの子は小さいころから、自分のまわりに垣根を張っていましたわ。本当にこのままいったらどうなっちゃうのかと、心配でたまらないんです。先生、これからも力になってくださいね。なにしろ主人ときたら、仕事の虫みたいな人で、子供のことは私にまかせきりなんですの」  綾子は、訴えるように私に熱っぽい視線を送った。私は、危うく踏みとどまった。欲望と、理性というより保身の計算が、真っ向からぶつかり合って火花を散らしている私の内面の葛藤《かつとう》を、綾子は知ってか、知らずか、おもわせぶりなため息すらついてみせた。      5  二学期がはじまった。クラスの恭子に対する公然たる疎外はなくなったが、反目は、執拗《しつよう》に生きつづけているようであった。恭子は、依然として孤立していた。孤立を楽しんでいるようにすら見えた。  だが、あの事件以来、私に対してだけは、かすかな親しみを見せるようになった。  私が、長井悦子やその親衛隊を徹底的に追及したのが、恭子に好感をあたえたのであろう。私が恭子に一個の男として惹《ひ》かれているとは知らず、日頃、それとなく庇《かば》っているのが、味方のいない彼女の心を少し解いたのかもしれない。  秋恒例の遠足が近づいてきた。六年生は、バスを借り切って、近郊の国立公園にあるN渓谷へ行くことになった。  N渓谷は、関東山脈から流れ出るN川の急流によってつくられた渓谷である。結晶片岩によって構成された断崖《だんがい》を、幾重もの滝が切り裂くように落下し、急流は渓谷の中央で深い淵《ふち》となってたゆたう。  変化のある渓谷美とともに、一億年前にできたと言われる結晶片岩が最もよく発達しており、自然科学の宝庫でもあるので、例年六年生の遠足地となっている。  遠足が数日後に迫ったとき、放課後、恭子が職員室へやって来た。どうやら私に用事がある様子だった。たまたま職員室には、私一人しか居合せなかった。 「反町君、何か用かい?」  職員室の入口でもじもじしている恭子に、私は声をかけた。彼女が、自分から職員室へやって来るのは、珍しいことだった。おそらく入学してから初めてであろう。 「先生」  恭子は、おもいつめた顔をして、私の席の前に立った。 「何だい?」  私は、恭子と一対一でこんなに近く相い接したことはない。生硬《せいこう》ではあるが、ふくらみかけた莟《つぼみ》の中に開花したときの美しさを十分に偲《しの》ばせる清純な魅力を秘めている。莟の固さが、その魅力の稠密《コンパクト》ぶりを物語る。  私は、いわゆる「食べてしまいたいような」愛《いと》しさを彼女におぼえた。その相手が、先方からおずおずと私に近づいて来た。決して自分のほうから人に近づいたことのなかった恭子が。——私の体の奥に恋する女性から愛の告白を受けるかのようなおののきが走った。 「あのう……」  ここまで来ながら、恭子は言ったものかどうか、迷っている様子であった。 「さあ、どうした。言ってごらん」  私は、優しくうながした。恭子はおもいを決したように目を上げた。 「先生は、今度の遠足に行くんですか?」 「もちろん行くとも。全校の遠足だからね」 「お願いです。行かないでください」 「行かないでくれだって、それはなぜだい?」 「なぜでも、行かないで」  恭子は、ひたむきな視線を注いできた。その透明な炎のような、不思議な熱感を帯びたまなざしに見つめられると、私は、いつも背筋に悪寒のようなものをおぼえる。嫌悪のせいではなく、なにかに魅入られたかのようなマゾヒスティックな快感と陶酔が、私を慄《ふる》わせるのである。 「どうしてそんなことを急に言いだすんだ? いいかい、ぼくは担任の教師だよ。ぼくが五組を引率していくんだ。責任がある。それともきみは行かないのか?」 「わかんない」 「わかんないって、どこか体の具合でも悪いのかい?」  私は、急に心配になった。実を言うと、今度の遠足は、私自身の楽しみでもあった。いつも教室の中でしか見ていない恭子を、あの神秘的なN渓谷の深淵《しんえん》のそばに立たせてみたい。きっと彼女の、水底に沈めたような美しさは、一億年の風化を刻んだ変成岩や碧瑠璃《へきるり》の淀《よど》のかたわらに置かれて、音が共鳴するように、そのミステリアスな美の正体を覗《のぞ》かせるかもしれない。  恭子が遠足に参加しないとなると、私が秘《ひそ》かに当てにしていた楽しみは完全に失われる。責任ばかりが重い、退屈な遠足の引率《エスコート》は、おもっただけでうんざりする。 「いいえ」恭子は首を振った。 「じゃあどうして行かないんだ。それはズル休みと同じだぞ」 「私、行きたくないの。だから先生にも行って欲しくないの」 「そういうわけにはいかないよ。ぼくが行かなかったら、だれが五組を引率するんだ?」  私は、少し嬉《うれ》しくおもった。恭子は、私を独占したいのだ。自分が行きたくないから、教師にも行くなと言うのは、稚《おさな》いエゴイズムだが、同時に彼女がそれだけ私を独占したがっていることをしめす。 「代りの先生がいるでしょ」 「全校の遠足だよ。それぞれ引率の担当が決ってる」 「もし病気になったらどうするんですか?」 「病気になったら、しかたがないよ」 「じゃあ、先生病気になって」  恭子は執拗《しつよう》だった。どうでも私を行かせたくないらしい。 「おいおい、今日の恭子はおかしいぞ。いったいどうしたんだ?」  私は、彼女の頬《ほお》をふざけた振りをして指で突ついた。 「お願いだから、先生行かないで」  そう言うと恭子は、私の指先に束《つか》の間《ま》のふくよかな感触を残して、逃げるように、職員室から出て行った。      6  結局、反町恭子は遠足に参加しなかった。前日まで降りつづいた雨がきれいに上がり、絶好の遠足|日和《びより》になった。N渓谷への道は、断崖の上に刻まれているので、学校は今日の決行をかなり慎重に検討したが、現地に問い合せて最近、道路も補修され、渓谷もあまり増水していないことを確かめたので、「決行」となった。  私は、恭子が不参加と知って、とたんに張り切っていた気持が萎《な》えた。だが自分の気分によって、勝手に取り止《や》められなかった。  ところが、遠足の帰路、大変な事故が起きた。遠足のパーティは、各クラスべつにバスへ乗ったが、五組の乗った5号車が、N渓谷を出発して間もなく、対向車とすれちがいざま、雨水で弱っていた路肩が崩れて、崖《がけ》の中腹に横倒しになったのである。  不幸中の幸いにも、前輪が岩に引っかかった。車体は、十数メートル下方の谷底へ転落するのをまぬがれた。もし落ちていたら、多数の死傷者を出したことであろう。私自身もはたして無事でいられたかどうかわからない。  車体が横倒しになると同時に、車内は阿鼻叫喚《あびきようかん》の渦となった。傾いた床の上を、生徒がずるずると落ちていく。その間もバスは崖の下へ向って引きずりこまれていくようだ。 「落ち着け! 落ち着くんだ」  と私はどなったが、生徒の泣き声や悲鳴によってかき消された。ようやく車体の滑落が停《とま》った。生徒は傾いた床を這《は》い上って、先を争って外へ逃れ出ようとする。 「待て。うっかり出ると危ないぞ。外は崖だ」  私は必死に制止した。前後のバスから応援が駆けつけて来た。生徒は、全員救出された。転倒した際、体を打った者もいたが、みなかすり傷程度だった。その場の手当てだけで、すんだ。  これだけの事故を起しながら、まさに奇蹟《きせき》だった。 「よかった、よかった」  同僚たちは、私の手を握って、涙をこぼした。生徒たちも、みな泣いていた。恐怖から解放されて、いのち拾いをした喜びが、全員を興奮させていた。  だが、最も興奮してよいはずの私一人が醒《さ》めていた。私は、べつの恐怖にとらえられていたのである。  ——この事故は、反町恭子が作為したものではないだろうか?——  だれも生命に別状ないと確かめたとき、その疑惑が頭をもたげていた。恭子は、数日前私に熱心に遠足へ行かないようにと言った。そして彼女自身は来なかった。  ——恭子は、今日の事故を予知していたのか?——  彼女にそんな未来の予知能力があったのか? もしそうでなければ、彼女が事故が発生するように、作為を施したことになる。5号車には、私を除いて、彼女を苛《いじ》めた五組の生徒がほとんど全員乗っていたのだ。  つまり、恭子には動機がある。  ——しかしどうやって彼女が、必ず渓谷の上の道でバスが落ちるように仕掛けを施せるのだ? 小学六年生の女の子がそんな知識や技術をもっていようとは、とうてい考えられない——  これは、偶然だ。偶然にすぎない。私は、疑惑を振り捨てようとした。しかしながら、恭子が自分を虐げた全クラスメートに復讐《ふくしゆう》するために、バスに呪《のろ》いをぶっつけ、私だけを救おうとしたのだという考えは、執拗に頭にこびりついて離れなかった。  バスが学校へ帰着すると、大騒ぎであった。すでにニュースは父兄の許《もと》へもたらされていた。全員無事と聞いたものの、わが子の元気な姿を見ないうちは、安心ならないと見えて、父兄は学校へ集まっていた。  六年生の父兄はほとんど全部来た。事故に関係ない他学年の父兄までが来ていた。校庭は、無事に帰って来たわが子を抱きしめたり、頬ずりして喜ぶ親たちであふれた。父兄には、自分の子供の姿しか見えない。担任の私に、礼を述べに来る親は、一人もいなかった。無事であたりまえ、怪我《けが》でもさせたら、全責任を押しつけられ、つるし上げられるのが教師と知っていながら、やはり私は、侘《わび》しいおもいを禁じ得なかった。 「お帰りなさい。本当にたいへんだったでしょう。ご無事でなによりですわ」  そのとき、背後からそっと私に声をかけてくれた人があった。声の来た方角へ目を向けると、恭子の母親がひかえめな態度で立っていた。 「おや、恭子さんは遠足に行かなかったんじゃありませんか?」  参加しない子供を迎えに来る親はいない。私は、不審におもった。 「そのことでちょっと先生にご相談したいことがございますの。あとでお手空《てす》きになりましたら、ほんの少しだけ、お時間を割いていただけませんかしら」  綾子は、遠慮がちに言った。その声音《こわね》にはおもいつめたものがあった。私は、恭子になにかあったのを悟った。 「こんな事故があったので、帰りは少し遅くなるとおもいますが」 「けっこうです。お待ちしています」  私は、待ち合せの場所をあれこれ考えたが適当な所をおもい当らなかったので、私の家に来てもらうことにした。その時点では、変な下心などなかった。事故車に乗っていた引率教師として、いろいろと質問をされるだろうし、かすり傷ながら怪我人も出しているので、いつ解放されるかわからない。自宅へ来てもらうのが、いちばん確実だとおもった。教師の家へ父兄が訪ねて来るのは、べつに珍しいことではない。  私は、当時K市内にある遠い親戚《しんせき》の家の離れを借りていた。  その日、午後七時ごろ、ようやく私は自由の身になった。帰宅すると、綾子がすでに来て待っていた。 「ごめんなさい。お留守に上がりこんで。外で待っていましたら、大家さんが入れてくださいましたの」  綾子は、いまは和服を着ていた。しっとりしたつむぎの下に、濃厚な色香をほどよく抑えていて、おもむきの深い色気をかもしだしている。ここへ来るために着替えたらしい。そのとき初めて、私に予感のようなものが走った。 「いや、おまたせしてすみません。事後処理にえらい時間がかかりましてね」 「本当にご苦労様でした。私、ご無事なお姿を見るまでは、胸が潰《つぶ》れるほど心配していましたのよ」 「ご心配をかけました。ところでご相談って、何ですか? 今日、恭子さんが来ないので心配していたのですが、体の具合いでも悪かったのですか?」  私は、室内着に着替えると、綾子と向い合った。 「べつに、どこも悪くなかったんです」 「じゃあ、どうして?」 「先生、あの子、たいへんなことをやっていたのです」 「たいへん? いったい何を」 「私、どうしたらいいでしょう。こんなことがわかったら、私たち一家は、この町にいられなくなりますわ、その前にあの子警察に連れていかれてしまうわ」  綾子は、おろおろ声になった。 「警察ですって、それじゃあ、やっぱり今日の事故となにか関係のあることを、恭子さんがやったのですか?」 「先生は、ご存知でしたの?」  私は、数日前のことを、綾子に話した。 「恭子は、恐ろしい子ですわ」  私の話を聞いた綾子は、身体を震わせた。顔色が紙のように白い。 「うかがいましょう。何があったんです?」  私はうながした。綾子は語りはじめた。      7  遠足の朝、恭子が起きて来ないので、綾子が寝室へ様子を見にいくと、恭子は青い顔をして、頭が痛いという。これまでに怠け休みをしたことがないので、綾子は娘の言葉を信じて、そのまま寝《やす》ませておいた。  遠足は、絶対に行かなければならないというものでもない。身体が少しでも不調のときに出すのは、危険であった。熱を計ったところ平熱だったので、綾子も大して心配しなかった。特になんの薬もあたえずに、そっと寝かせておいた。  午前十時ごろ、りんごを剥《む》いて恭子の寝床へもっていってやると、蛻《もぬけ》のからになっている。どこへ行ったのかと家の中を探すと、勉強部屋の方で気配があった。 「元気を回復したので、勉強でもはじめたのかしら?」  とおもいながら、綾子は勉強部屋へ近づいた。ドアがうすく開いていて、そのわずかな隙間《すきま》から恭子の声がもれてきた。 「あら、珍しいわね、本を声を出して読むなんて」  綾子はびっくりした。こんなことは初めてだったのだ。綾子はドアの隙間からそっと内側を覗《のぞ》いた。恭子はきちんと閉めたつもりが、わずかな所で、閉めきらなかったのだろう。  恭子は、勉強机に向って妙なことをしていた。机の上には粘土でつくった長方形の箱のようなものが置いてある。彼女はそれをなにか呪文《じゆもん》のようなものを口中に唱えながら、机の端から床の上へ突き落していた。  粘土が床に落ちると、また拾い上げて、同じ動作を繰り返す。 「いったい何をしてるのかしら?」  綾子は、首を傾げた。だが彼女は娘に問いかけなかった。うっかりそんな真似《まね》をしようものなら、一か月くらい口をきかなくなる。わが娘ながら、恭子がどのような独自の世界に浸りこんでいるのか、綾子には、まったく見当がつかなかった。幼いころから、恭子は自分だけの世界に閉じこもって、親にもその中へ入らせない。そこは恭子だけの王国なのだ。王国の中には一定の儀式がある。その儀式は、どんなことがあっても守らなければならない。  幼稚園のころ、恭子は、自分の布団を毎日干した。それ自体は、よい習慣だった。ところが、天気だろうが雨が降っていようが、毎日干さないと承知しないのである。それが彼女が定めた「王国の儀式」だった。この儀式は、幼稚園を卒業するまでつづいた。  そのために、綾子は、実際に使う夜具のほかに、儀式用のものも用意したのである。 「これも儀式の一つかもしれないわ」  そうだとすれば、うっかり声をかけられない。 「ヨチチノラレワスマシマニンテ」  母に盗み見られているとも知らず、恭子は、意味をなさない呪文を唱えながら、ますます熱心に粘土の塊りを突き落している。その行為に注意を集中しているために、母に覗かれているのに気がつかないのだ。 「オトコンレラメガアノナミバクワガネ」  粘土はよくかたく乾燥していたらしく、何度めかに机から突き落したとき、床に当ってばらばらに崩れた。それを見て、恭子はうすく笑った。その笑いには、わが子ながら、背筋がゾクッとするような冷酷なものがあった。  綾子は、足音を忍ばせて、勉強部屋の前から立ち去った。急に恐くなったのである。いま盗み見をしているところを見つかったら、なにをされるかわからないような気がした。  午後になって、綾子のもとへ近所の主婦から電話がかかってきた。 「奥さん、たいへんよ。遠足のバスが崖《がけ》から落ちたんですって」  主婦の声は震えていた。彼女の娘も、クラスはべつだが、同じ学年で、今日の遠足へ参加しているのである。 「本当なの?」  綾子は、おもわず受話器を握りしめた。 「本当よ。いま学校から通知があったの。でも、幸いに大したことはなかったんですって。お宅の恭子ちゃんも行ってるんでしょう? 帰って来るまでは心配だわ」 「うちの恭子は、身体の具合が悪くて行かなかったのよ」 「まあ、運がいいわ、もう私、心配で心配でいても立ってもいられないから、学校へ行ってみるわ」  主婦は、綾子が被害者ではないと知ると、そそくさと電話を切った。その一瞬、綾子の瞼《まぶた》に、少し前盗み見た恭子の奇妙な儀式がよみがえった。  ——恭子が机から突き落していた、長方形の粘土の塊りは、バスをかたどったものではないかしら?——  恭子が、はっきりした理由もないのに、遠足に参加しなかったことが、いまにしておもい当るようである。 「なんて恐ろしい」  綾子は、背筋にほんとうの悪寒を覚えた。 「奥さん、それはなにか誤解なさっているんじゃありませんか。粘土の塊りを、机の上から突き落していたとしても、なにかべつの意味があったのかも知れませんよ」  反町綾子の話を聞き終った私は、言った。恭子が、そんな気ちがいじみた呪《のろ》いを、バスに向けていたとは信じられなかった。 「先生、これをごらんください」  綾子は、私の前に一冊の古びた黒い本を差し出した。本の表紙には、『悪魔考』と題名が書いてある。 「何ですか、これは?」  私は、本を手に取りながらたずねた。 「恭子の机の引出しの中にあったのです」 「この本が、何か?」 「ここをごらんになってください」  綾子は、あるページを開いた。文章の脇《わき》に赤い傍線が引いてある。 「その赤線は、恭子が引いたものなんです」  私は、指さされるままに、赤線の箇所を読んだ。  ——魔術で他人の生命を奪うのに一番手っとり早い方法は、まず殺す相手の姿に似せた泥の形を作り、十分に乾かすことです。そして呪う相手を病気にさせたり、殺したいと思えば、この�泥形�に恨みをこめて、針や釘《くぎ》で突き刺すか、あるいは、高い場所から突き落すのです—— 「それから、ここをお読みください」  綾子は、べつのページを繰った。そこにも赤の傍線が引いてある。  ——「主の祈り」(�天にまします我らの父よ、願わくば御名の崇《あが》められんことを!……�「マタイ伝」六章九節以下)を逆に読んでいく奇怪な隠語で、恨む相手を呪う崇められぬ助力を求める場合に用いる呪文であった—— 「恭子が唱えていた呪文は、たしかにこれでした。あの子がバスを呪い落したのです。なんて恐ろしい! 先生、私はどうしたらいいでしょう?」  綾子は、話しているうちに、恐怖をよみがえらせたらしく、私にすがりつかんばかりにした。 「奥さん、落ち着いてください。たとえ、恭子さんが子供らしい考えから、バスに呪いをかけたとしても、それが事故の原因ではありません。ただの偶然です」  私は、綾子をなだめながらも、恭子が同級生に復讐《ふくしゆう》するために、小学生には難かしすぎる悪魔学の本を買い、それを信じて一心に呪いをかけようとした心理に、恐怖を覚えた。私自身にも、バスの事故が偶然だったとは言いきれなくなった。もしかしたら、少女の一念がバスを崖から引きずり落したのかもしれない。 「偶然です。偶然にちがいない」  と綾子に断言しながら、心の中に迷いがたゆたっている。 「先生、助けてください」  熱い肉塊がいきなり飛びこんできたように綾子の身体が私の上にのしかかってきた。避ける間もなかった。にじり寄ったはずみに彼女の着物のすそが割れて、張り切った内腿《うちまた》の白さが目についた。濃厚な�女臭�ともいうべきにおいが鼻腔《びこう》をおそった。一瞬、私は自分を失った。二人とも飢えていた。二つの身体が火花を発して溶接した。      8  バス転落事件をきっかけにして、綾子と私の間に関係が生じた。人妻とその子の教師の関係である。露《あら》われたら、二人ともに、破滅であった。二人は、細心の注意を払って逢《あ》いつづけた。綾子は、夫の留守の空虚を、私は独身の飢餓を、相互に充たし合った。どちらにとっても美味でメリットの多い関係であった。そのために、渡る危険な橋は、支払わなければならない当然の代償であった。  だが、だれ知らぬとおもっていた私たちの関係に気づいていた者がいた。二学期が過ぎ、三学期も残り少ない二月末のある日、大事件が起きた。午前七時頃、起きたばかりの私のところへ、綾子から電話がかかってきた。 「先生たいへん!」  上ずった彼女の声を聞いた瞬間、私は嫌《いや》な予感がした。 「恭子が、恭子が!」  綾子の声はかすれて、後の言葉がつづかない。 「落ち着いて。恭子さんが、どうかしたんですか?」 「恭子が自殺をしたんです。ベッドの中で冷たくなっています」 「何だって!?」  私は愕然《がくぜん》として送受器を取り落した。ともかく、私は取るものも取りあえず、反町家へ駆けつけた。恭子はすでに完全に息絶えていた。昨夜寝る前に、睡眠薬を大量に飲んだらしく、枕元《まくらもと》に空になったビンが転がっていた。もはやどうにもならなかった。 「先生、こんなものが、恭子の勉強部屋に」  綾子が震える手で差し出したものは、一本の五寸釘によって、串刺《くしざ》しにされた二体の折り重なった粘土の人形であった。 「恭子は、俺たちの関係を気づいていたのだ」私はおもわずうめいた。私はそのとき、私が真に愛していた女性は恭子だったことを悟ったのである。綾子は、恭子の代役にしか過ぎなかった。私は、綾子の熟れた肉体の中に、男の欲望を叩《たた》き込みながら、ついに触れることのできなかった私の「永遠の女性」の面影を重ねていたのである。恭子も私を秘《ひそ》かに愛していてくれたのだ。だから私と母親の不倫の関係を許せなかった。彼女の死は、私に対する抗議であり、命をかけた断罪でもあった。  恭子の死は、私にとって、全女性の死と同じであった。私は、その日から、すべての女性に興味を失った。星に恋した男のように、私は、水底にゆらめくような恭子の青い美しさに取り憑《つ》かれてしまった。腕を伸ばせばすぐにも届きそうな先に沈んでいながら、決して届くことのない千尋《ちひろ》の底に遠ざかった青い魔性の虜《とりこ》にされたのである。      9  埼玉県K市の郊外にある精神病院を取材に来たある新聞記者は、一人の患者に注目した。その患者は、記者の質問にも的確に答え、動作も常人とまったく変らない。目つきも尋常である。医者や看護婦の言うことも、よく聞くし、仲間の患者の面倒見《めんどうみ》もよい。仲間の信頼も厚そうである。どこから見ても、まったく正常人のようであった。 「あの患者は、どこも悪そうに見えませんが?」  新聞記者は質《たず》ねた。 「そう見えるでしょう。病院にいる限りは、むしろ正常人よりも正常に見えます。しかし彼は、少女の骨を喰《く》うのです」 「少女の骨を?」  新聞記者には、案内の医者の言葉がよく理解できなかった。 「彼は、元小学校の教師だったのですが、教え子の少女に恋しましてね。ところがその少女が死んでしまったのです。数日後、少女の墓をあばいて、その骨をカリカリかじっているところを見つかったのです。すぐに、入院加療して軽快したので退院させたところ、また少女の墓を見つけては、あばきます。あの男は、教え子の少女に取り憑かれてしまったのですよ。おそらく一生この病棟から出られないでしょうな」 (文中の一部引用は吉田八岑著「悪魔考」による——作者) [#改ページ]   殺 意   終電車の中には雑然たる荒廃感が漂っている。乗客の大半に疲労とアルコールが澱《よど》み、席にありついた者も、吊革《つりかわ》にぶら下がっている者も、あるいは他の乗客に寄りかかっている者も半分眠っている。  酒と脂粉のにおいが入り混り、一日の疲労と攪拌《かくはん》されてそんな荒廃感を醸し出すのであろう。  その電車は都心の地下鉄と、隣県の衛星都市を結ぶ私鉄と相互乗入れをしている。終電車の発車時間が迫るとまだ都心にこんなにたくさんの人間が居残っていたのかと呆《あき》れるほどの人数が集まって来る。  終発を告げるベルがホームに鳴り、駅員の笛が鳴ってもまだ階段を駆け下りて来る者が後を絶たない。なにしろこの電車に乗り遅れたら明朝の始発まで足を失うのだから必死である。一拍の差で乗り遅れた乗客は、閉まったドアの前でテレ笑いをするが、終電車に乗り遅れた者にはそんな余裕はない。駅員になんとかしろと食ってかかる者もいる。  終電車も待てるだけ待ち、詰め込むだけ詰め込んでようやく発車する。  グループで乗り込んで来た者は、声高に話し合っている。高笑いも起きる。いずれも酒の入った声である。寝不足の不機嫌で静まりかえった朝の車内とちがうところである。背広を着ている男たちが多く、たいていネクタイが歪《ゆが》んでいる。  いずれも日常性のレールの上を往復している者であるが、無気力と疲労を酒の力で無理にかき立てている。  待つ者と暖かい家庭があれば、なにも終電車まで飲む必要があるかとおもいがちだが、必ずしもそうではない。仕事の後、酒を飲むことによって縛りつけられた管理の枠と日常性の鎖からの脱出を試みているのである。そんなことをしても少しも脱出にならないのであるが、彼らがせめても翻した反旗である。  鳴海真人《なるみまさと》はその夜終電車に揺られていた。始発駅で満員になった車内であったが、発車後間もなく彼が立った前の席が空いた。べつに坐《すわ》りたくもなかったが、じっくりと胸の殺意を暖めていくためには、席に坐って行くほうがよいだろう。  鳴海は懐中に一振りの凶器を隠していた。彼はそれを今夜ある女に使うつもりであった。女はこの終電車が向かう遠い郊外に住んでいる。鳴海が彼女を殺そうと決意した動機はありふれている。  二人は出会い、愛し合った。二人の愛が発展するのも、冷却するのも、同じペースであれば問題は生じない。  どんなに永遠の愛を誓い合っても、どちらか一方が冷えればそれまでである。結婚して子供でもいれば、破局の多少のブレーキになるが、たがいになんの責任もない口約束だけの恋愛関係であれば、どちらかが冷めたときが終りである。  そして彼らの愛に突然終りがきた。女から一方的に別れを宣告された鳴海は理由を聞いた。 「理由なんかないわよ。私たち縁がなかったのよ。別れたほうがおたがいのためだわ」  女の口調は限りなく冷たかった。 「おれが嫌いになったんだな」 「そんなこと言ってないわ。これからはいいお友達になりましょう」 「いい友達か。そんなものはごめんだね。いまさら女学生ごっこができるとおもってんのか。男ができたのならできたとなぜはっきり言わない」 「そこまで言うなら言ってやるわよ。もうあなたなんか大嫌いよ。顔も見たくないわ」  冷えた愛の上に売り言葉と買い言葉が重なった。女に未練が残る鳴海は、女から裏切られたとおもった。  むしろ女の情にほだされてスタートし、深間になった彼らの関係である。それをいまになって顔も見たくないとは、なんたる言い草か。結局、愛を玩《もてあそ》びながら男から男を渡り歩くプレイガールだったのか。  そうはさせないとおもった。おれで最後にさせてやる。次の男には渡さない。鳴海は決心した。  あの白く輝く美しい肉体を鮮血で染めてやる。男を迷わせる器官を破壊してやる。そしてこの電車に乗った。彼女が在宅していることは確かめてある。いまから一時間もしないうちに、彼女はこの世からおさらばする。  彼女一人を死なせるつもりはない。あの女を殺した凶器を用いて、自分もすぐ後を追うつもりである。  終電車の乗客は�長距離型�が多い。そんな「はるかなるマイホーム」であれば、早く帰ればよさそうなものにとおもうのは、�素人�で、家が遠い者ほどぐずぐずしている傾向がある。  終電車の乗客の第一は酔客である。ホテル代もタクシー代ももたないサラリーマンが安酒場でぎりぎりまで飲んで終電車に駆け込んで乗る。  二番目はそれら酔客の相手をつとめてきた酒場やスナックの従業員である。ホステスはタクシーを使うので少ない。それに彼女らのほとんどが都内の近距離に住んでいる。  第三が残業組や遅番組である。一、二と三型のちがいはアルコール含有の有無である。  第四は長距離列車で着いた乗換え客である。彼らはたくさんの荷物と、サラリーマン客とは異なる非日常のにおいをまとっている。  第五がその他であるが、その中に人を殺しに行く者は、めったにないだろう。  乗客の年齢は二十代から六十代までで、二十代から三十代が最も多い。子供と小中高校生の客はない。グループは三十代に多く、気勢をあげているのに対して、五十代以上は一人か小人数で侘《わび》しく酔いをかかえ込んでいる。途中駅で乗降する客は終電車の少数派である。性別は男女比八・二か七・三ぐらいであるが、遠距離に行くほど女性の客は減る。  鳴海が坐ってからちょっとした騒ぎが起きた。立っている乗客と坐っている乗客が口論を始めたのである。発車前から梅雨もようの雨が降っていて車内は蒸し暑かった。  立っている乗客が開けた窓を、坐っている乗客が閉めた。 「暑いんだよ。窓ぐらい開けてくれてもいいだろう」 「雨が吹き込むんだ」 「坐って楽してるんだからそのくらい我慢しろ」 「なんだと」  いまにも殴り合いになりかねない雲行きであった。両者の対立は、立っている乗客と坐っている乗客の一種の代理戦争であった。  だが殴り合いになる前にけんかはあっけなく終息した。当事者の隣りの乗客が下車駅が近づいて立ち上がった。立って口論していた乗客が素早くそのあとに坐り、雨が吹き込むものだからさっさと窓を閉めたのである。  それには一方の当事者もあっけに取られ、他の立っている乗客もあまりの現金さに失笑した。満員の車内で凄《すさ》まじいくしゃみをする者がいるが、本人も周辺の者もあまり気にしている気配はない。  駅に停車する都度、車内は少しずつ空《す》いてきた。席にありついた者は、いぎたなく眠りこけている。これが朝の通勤電車とちがうところで、朝の乗客には寝不足を少しでも補おうとする「いじましさ」があるが、いぎたなさはない。  眠りにアルコールが加わって正体のない者もある。彼らの中には下車駅を乗り過ごす者もいるだろう。終電車だから折り返しの電車もなく、終着駅で一番電車までの夜明かしとなる。彼らは習性で家のある方角に向かっているのだ。  鳴海の前の席に若い娘が坐っていた。水っぽくない(水商売らしくない)上品なスーツをまとっていて理知的なマスクの美しい娘である。アクセサリーも控え目でいいセンスを隠し味のように抑え込んでいる。  頽《くず》れた女が多い終電車の中で、昼と言うよりはむしろ朝の新鮮な雰囲気を身辺にまとったその女は目立った。年齢は二十一、二歳か、鳴海の目がそれとなく女の身許《みもと》を詮索《せんさく》していると、彼女は携えていた有名なブティック名の入ったビニールバッグを探ってなにかを取り出した。  なにを取り出したのかと見守っている好奇の目(鳴海一人ではない)の前で彼女は取り出したものをパクリとくわえた。  それは一個のアンパンだった。唖然《あぜん》としている乗客の前で彼女は、むしゃむしゃとアンパンを食った。服装のいいハイブローな美女が終電車の中でアンパンにかぶりついている。それはかなり奇異な眺めであった。グループがカップ酒で酒宴をするのは稀《まれ》に見かけるが、若い娘が終電車でアンパンを食うことはない。よほど腹が空いていたのだろう。娘は周囲の視線を意に介さず、アンパンを脇目《わきめ》も振らず食っている。一個食い終った。なんとなくホッとした乗客の視線の前で娘はまたビニールバッグを探った。引き出した手は新たなアンパンをつかんでいる。  二個目のアンパンを食い終ったとき、電車は駅へ着いて彼女は降りて行った。残された乗客一同から期せずして低い溜息《ためいき》が漏れた。  鳴海はいま見た光景が信じられなかった。終電車、OL風の上品な娘、アンパンという組み合わせが判じ物のようにミステリアスである。これも終電車のミステリーの一つなのだろう。  このころから鳴海は隣りの乗客が気になりだした。豚のように太った中年の男である。栄養が行き届いた皮膚はてらてらと光って脂《あぶら》が浮いている。腋臭《わきが》のにおいが漂ってくる。酒が入っており、途中から席にありついたのが、いい気持になって、舟を漕《こ》ぎ始めた。舟を漕ぐのは自由であるが、その厚ぼったい身体を鳴海の方へもたせかけてくる。八十キロはありそうな体重が寄りかかるのであるから窮屈で仕方がない。  鳴海は身体をひねって迷惑がってみせるのだが、そのときだけ居ずまいを直して、すぐに元《もと》の木阿弥《もくあみ》になってしまう。  居眠りには一定の体のくせがあるらしく、決して逆方向には傾かない。こくりこくりと舟を漕いでは、鳴海の方に寄りかかる。  重い、暑苦しい、窮屈である。相手の体温がこちらに伝わる。酔った悪臭が呼吸の都度吹きかかる。  そんなに不愉快なら立って席を放棄すればよいのだが、なぜ後から来たこんなやつのために立たなければならないのかと意地になっている。ついにたまりかねた鳴海は、 「ちょっとお、いいかげんにしろよ」  と怒声をあげて男の身体をぐいと押し返した。男はびっくりしたように目を開いたが、なぜ鳴海にどなられたのかわからないようである。目ヤニの浮いた目が赤く充血している。 「こっちへ寄りかからないでくれよ」  鳴海に言われて初めて気がついたようだ。 「やあ、これは失礼しました」  と素直に詫《わ》びた。だが詫びてから数分もしないうちに再び舟を漕ぎ始める。前よりもさらに図々《ずうずう》しく寄りかかってくる。  重く厚ぼったい体重が鳴海を圧迫する。何度押しこくっても彼の方に体重をかけてくる。鳴海は次第に相手に殺意をおぼえてきた。  懐中には女を殺すために用意してきた凶器を忍ばせてある。その刃はだれに対しても平等に作用する。肉も体も厚ぼったい隣りの乗客に対して、懐中の凶器がむずむずしているように感じられた。  最後の警告を発しても、寄りかかるのを止《や》めなければ、我慢も限界である。鳴海は、凶器を使用する前に、相手を押し返した。相手の体重が取り除かれた。  隣りの乗客は鳴海の殺意を感知したのか、姿勢を正して眠っている。鳴海はホッとした。危うく無用の殺人を犯すところだった。鳴海が殺意を鎮めたとき、再び体重がかかった。まるで彼の心の中を読み取っているかのようにタイミングがよい(悪い)。  鳴海はカッとなった。隣りの乗客は、すべてを承知していて鳴海をからかっているのではないのか。彼が凶器を懐中に忍ばせていることも知っている。あるいは彼がこの電車に乗った理由も知っていて、その目的の邪魔をしようとしているのかもしれない。  この男がいるかぎり、あの女を殺せない。こいつが彼女の前に立ち塞《ふさ》がっているのだ。もしかするとこの男が彼女の心と体を盗んだのかもしれない。そうおもうと、本当にそんな気がした。彼女以上に隣りの乗客が憎くなった。まずこいつを殺さなければならない。もはや我慢の限界に達したとき、ひょいと男は姿勢を直した。体重が取り除かれて圧迫感が消えた。それと同時に殺意も消退した。 (よかった、殺さなくて)  鳴海はホッと安堵《あんど》の吐息をついた。電車は彼の下車駅へ近づきつつあった。車内には立っている人の数が少なくなっている。だがまだ空席が見えるほどではない。  鳴海がホッとしたとき、また体重がかかった。今度は本格的に眠り込んでしまったらしく、身じろぎしようが、押し返そうが、ぐいぐい押してくる。男から受けた圧迫が、鳴海の反対隣りの乗客にまでかかって眉《まゆ》をひそめられたほどである。 「ちょっとお」  鳴海は再び声をかけた。だが相手にはなんの反応もない。ぐっすりと眠り込んでしまったのである。  見ると口角の端から涎《よだれ》をたらしている。涎の先が長い糸を引いて、鳴海のズボンの膝《ひざ》に届いていた。鳴海の忍耐の糸が切れた。その糸の切れる音を鳴海はたしかに聞いた。 (野郎、ふざけやがって!)  鳴海が、凶器の柄を握りしめてまさに引き抜こうとしたとき、頭部に強い衝撃をおぼえた。一瞬くらくらとしてなにが起きたのかわからない。鳴海は隣りの乗客が彼の殺意を感じ取って先制攻撃をかけてきたのかとおもった。だが乗客は同じ姿勢を維持していぎたなく眠りこけている。 「あ、すみません」  耳許で謝辞が聞こえてべつの乗客が床に落ちたかばんを拾い上げた。乗客の一人が鳴海の頭上の網棚に載せていたかばんを取り下ろそうとして手が滑ったのである。それが鳴海の頭を直撃したのである。  いまの騒ぎで隣りの眠った乗客が目を醒《さ》ました。 「いけねえ」  彼は慌てて席からはね起きて電車から飛び下りた。彼の背後で電車のドアが閉まった。鳴海は飛び出して行く「殺され損なった乗客」と、閉まるドアを茫然《ぼうぜん》と見送っていた。そこは鳴海の下車駅であった。  電車は発車した。もうその駅へ折り返す電車はない。そのとき鳴海は彼に対する憎しみも、燃えるような殺意もきれいに消えているのを知った。  車内にはようやく空席が見えてきた。雨は止んでいた。 [#改ページ]   静かなる発狂      1  矢吹邦彦《やぶきくにひこ》と柏木武男《かしわぎたけお》は、私立の名門F大の同窓である。二人の専攻は、経済学だ。F大は、卒業生が実業界で活躍しているので有名である。学生もそれら実業人の子弟が多い。  F大が、長年にわたって実業界に人材を送って扶植した勢力は、 「F大を語らずして、日本の実業界を語ることはできない」といわれるほどである。  そのF大の中でも経済学部は、最も優秀とされている。  日本の証券市場に上場している一流会社のほとんどすべてに、F大経済学部の出身者が入りこんでいる。しかもそのトップメンバーに顔を連ねている。  このF大経済学部で矢吹と柏木は、常に上位に席次を置いていた。どちらも地方の出身で、家は貧しかった。本来なら財界人の子弟の集まるF大などにとうてい入学できる身分ではなかったが、そのずば抜けた成績を惜しんで高校の先生が両親を説得したのである。  息子たちの成績よりも、学資はアルバイトと奨学資金で何とかなると言った教師の言葉が両親を動かした。  彼らが故郷を出発するとき、その土地の新聞に書きたてられ、親戚《しんせき》をはじめ、近所の人間や土地の有力者が、ほとんど総出で見送ってくれた。  彼らはその盛大な見送りを受けながら、「学ならずんば、死すとも……」といったあの大時代がかった責任感のようなものを感じた。  それは悲愴《ひそう》な感慨でもあった。地方出身の青年を、おうおうにして押し潰《つぶ》すのは、この故郷《くに》の大きすぎる期待である。  猫の額のような閉鎖社会に生まれ育ち、これからもそこに生活していかなければならない人々は、そこから飛び出して行く若者に期待をかける。  自分たちの食う物や着る物を切りつめても、外へ出る若者にすべてを注ぎこみ、やがて彼が成功したとき、彼によって、自分たちもこの閉鎖社会から引っ張りだしてもらおうとおもっているのである。  ともかく矢吹と柏木は故郷《くに》の期待を一身にになって上京した。  自分たちの勉強のために、くにの両親や弟妹が衣食をつめているとおもうと、一日一時間もおろそかにはできなかった。  潤沢な仕送りを受けて、�遊学�している他の一般学生とは、最初から、勉強の迫力がちがっている。  ただし二人の成績を比べた場合、そこに微妙な、しかしつめがたい差があった。柏木は、秀才ぞろいのF大でも、常に首席を維持する文句なしの秀才であった。  ところで矢吹の場合は、たしかに成績はよい、しかし文句なしの秀才とは呼べないところがある。常に�上位群�にはランクされているものの、その底辺をうろついている。  代議士という一つのエリート集団にたとえれば、彼らのランクは首相と陣笠《じんがさ》ほどのちがいがあった。  柏木は天才型であり、矢吹は努力型であったのだ。血の滲《にじ》むような努力を重ねて、辛うじて上位群へぶら下がっている矢吹に比して、柏木には危なげがなかった。  やがて彼らは、卒業期を迎えた。いよいよこれからが�本番�である。学校でいくらよい成績を取っても、それは、社会的地位や収入には直接つながらない。  要するに、「いい会社」へ入らなければ、彼らがF大へ入学し、�爪《つめ》に火をともすように�して、せっせと優を積み重ねた意味がない。F大では、優の数の多い者から、よい会社への就職を斡旋《あつせん》してくれるのである。  その意味で、二人にとって大学は真理探究の場所ではなく、エリートサラリーマンになるための急行券を取得するところであった。  彼らの求職に対して、大学の就職斡旋部は、菱井銀行へ推薦してくれた。  菱井銀行は、日本で預金量、一、二位を誇る大手市中銀行であり、国際的にも名前の聞こえた財閥グループの中核である。�菱井マン�であるだけで、世間の見る目がちがう。  彼らが菱井銀行へ入ったということだけで、くにでは提灯《ちようちん》行列でもしかねないだろう。  名門F大においても、菱井銀行はトップの就職先である。したがって、求人する側もきわめて厳しい条件を打ち出してくる。秀才ぞろいのF大でも、特に学業成績優秀な者にしか受験資格を与えない。  それほど成績が悪くなくとも、優の数が一つ足りなかっただけで、入社試験を受けられなかった者が大勢いた。 「まずきみだったら、無条件でパスするよ」  就職斡旋部は推薦するにあたって、柏木に保証した。彼らに保証されずとも、柏木には満々たる自信があった。  菱井銀行の入社(行)試験は難しいので聞こえている。しかしどんなに難しくても、柏木はそのために勉強してきたのだ。  彼らにとって大学は、四年制の�就職予備校�にすぎない。四年間、大学の目的とはほど遠い就職専門の勉強は、いまこそその効果を発揮するだろう。  柏木はすでに受験する前から、入行許可されたような気分になってしまった。晴れて菱井マンになれたら、まずすることは、「お里帰り」だ。  仕立ておろしの背広を身にまとい、菱井のバッジを胸につけて帰郷する自分を、くにの人間はどんな顔をして迎えてくれるだろうか。  柏木の推薦は無条件だったが、矢吹に関しては就職斡旋部内でももめた。菱井銀行への求職者は多く、現に矢吹以上の成績の者が、希望している。  だが結局、斡旋部は矢吹を推薦することにした。成績は多少意に満たないところがあっても、彼の努力をかったのである。  適性も希望もそんなことは二の次である。いちばんよい(物質的に)勤め先だから、最も危なげのなさそうなのを推薦する。そういう推薦方式の中で、矢吹はむしろ例外に属した。  矢吹の適性を慎重に考えた場合、彼には他にもっと適した職場があったかもしれない。しかし菱井銀行に推薦されたという一事だけで、無条件に感激した彼に、地方出身の青年にありがちな、ゆとりのない功名心の弊があった。  試験は、都心の一流ホテルの大会議場を借り切って行なわれた。受験資格をかなり厳しく絞っておりながら、当日、全国の一流大学からのえりすぐり三百人ほどが受験した。この中で採用人員はたったの十二名と聞いている。  それでも柏木は少しも不安におもわなかった。彼は絶対の自信をもっていた。  問題はかなり難しいものばかりだったが、柏木はすべてに答えられた。その内容にも自信があった。  結果の発表は数日後である。受験者の自宅や連絡先に、パスした者だけに通知がいくことになっている。  数日がたった。矢吹だけに通知が来た。地域によって郵便事情が異なるので、柏木は不安に耐えてさらに三日待った。  とうとうがまんができなくなって、管轄の郵便局に問い合わせた。郵便局には彼あての郵便物は一つもなかった。 「そんなはずはない!」  柏木はおもわず、局員にどなってしまった。 「しかし、いくら言われてもないものはないのです」  局員は半ばムッとし、半ば軽蔑《けいべつ》した表情で答えた。 「矢吹に通知が来て、おれに来ないはずはない」  柏木は諦《あきら》めきれなかった。試験のあと参考書を調べて、自分の解答が、ほぼ満点に近いことをたしかめている。  まして矢吹がパスして、自分が落ちるなどということは、絶対に考えられない。そんな馬鹿なことがあるはずはなかった。 「おかしいなあ、きみが落ちるはずはないのに」  と柏木の前で矢吹は殊勝に首を傾けてみせたが、内心大いに得意がっている様子が明らかに読みとれた。  しかもこれは学業成績の順位とはちがう。たとえその当落の岐《わか》れ目がわずかであったにせよ、片や菱井マンとしてのエリートの身分につながり、片や依然として職の定まらないルンペン学生である。  その差は、天地の差といってよかった。  まだこれから面接やら身体検査やらが残っていたが、最大の難関を突破した矢吹が、これから後のコースを順調に進むだろうことは容易に予測できた。  柏木はどうしても諦めきれなかった。 「もしかしたら、銀行側の人事係がまちがったのかもしれない」  いったんそうおもうと、そうにちがいないようにおもいこまれてきた。 「とにかく一度、直接あたってみよう」  と、柏木は未練たらしく菱井銀行の人事担当者に面会を求めたのである。 「柏木武男か、名前を言われてもわからんねえ。受験ナンバーを言いたまえ」  こういうことに馴《な》れているらしい人事担当者は、無表情に言った。  柏木がナンバーを告げると、彼はいったん別室へ引っこんだが、待つ間もなく引きかえして来て、 「ああ××番は、総計二百二十六点だ、満点が五百点だからまったく問題にならないね、学科試験の通過基準は、四百五十点以上においてあるんだよ、きみ」  人事係は軽蔑しきった表情になった。これが四百点前後ならば、聞きに来るのも、まあ無理ないが、二百点台をうろついているデキの悪いのが、わざわざ問い合わせに来るとは、図々《ずうずう》しいにもほどがあると言わんばかりだった。 「二百二十六点!」  柏木は最初|愕然《がくぜん》とし、次に唖然《あぜん》とした。  そんな馬鹿なはずがないと言おうとしたが、言葉にならなかった。たしかにそんな惨憺《さんたん》たる成績を取るはずがない。自分の解答はいちいち参考書で確認している。どんなに悪くとも四百八十は下るまいと踏んでいた。それが二百二十六とは! 「なにかのまちがいです」  柏木はようやく声をだした。 「馬鹿な言いがかりは止《や》めなさい。この採点はすべてコンピューターでやっているのだ。まちがうはずがない」  人事係は吐きだすように言うと、席を立った。取りつくしまもなかった。  数日後、柏木武男のアパートの管理人は、柏木にかかって来た電話を取り次ぐべく、彼の部屋をノックした。数回ノックしても返事がないので、留守かとおもって引きかえそうとしたとき異臭をかいだ。 「おや?」と鼻をうごめかして立ち止まった彼の耳に、シューッと何かが勢いよく噴出する音が届いた。  臭いと音は、柏木の部屋の中で発生していた。 「大変だ!」  事態を悟った管理人は、戸をドンドンと叩《たた》いた。アパートの住人が異様な気配に廊下へ出て来た。  彼らの助けを借りて、戸を押し破ると、濃密なガスの塊りが一気に廊下へ押しだしてきた。いったんひるんだ人々は、濡《ぬ》れ手拭《てぬぐ》いなどでマスクをして、室内にのびていた柏木をかつぎだした。  救急車で病院へ運ばれたが、一酸化炭素を吸いすぎていて、すでに手遅れだった。身のまわりをキチンと整頓《せいとん》してあったので、事故ではなく、覚悟の自殺だとわかった。  遺書らしいものは、特になかったが、あとになってから、手帳のすみに、「くにの両親と弟妹に申しわけない」という走り書きが発見された。  柏木は、F大の秀才として、アパートの住人からも、何となく畏敬《いけい》の目で見られていた。自分は、こんなところの住人とは、もともと人種がちがうのだと言わんばかりの傲然《ごうぜん》としたところがあって、アパートでの評判はあまりよくない。  それがここ数日、部屋にひきこもっていて意気消沈していたが、まさか自殺するとは、だれもおもっていなかった。  検死に来た警察は、彼が菱井銀行の試験に落ちたのを苦にして自殺をしたと断定した。  皮肉なことに、管理人が発見するきっかけを与えた電話は、菱井銀行からのもので、柏木が落ちたのは、コンピューターのミスによるものであり、彼の成績は、全受験者中トップだったことを伝えるためのものであった。  警察が柏木が自殺したことを伝えると、菱井銀行はさして驚いた様子も見せず、 「入社試験に落ちたくらいで自殺をするような弱い人間は、弊行は求めておりません。結局、そういう弱者を見つけだすために、演算をまちがえたコンピューターは、最終的な判断において正しかったわけですな」  とうそぶいたものである。      2  矢吹邦彦は憧《あこが》れの菱井マンになれた。ただの菱井マンではない。菱井グループの中核たる菱井銀行のメンバーになったのである。彼の得意さや思いみるべしであった。  もはや自殺した柏木のことなど彼の心の中にかけらも残っていなかった。電算機の故障という不運があったにしても、要するに彼は弱かったのだ。  弱かったからこそ、自殺をしたのであり、電算機も故障したのだ。矢吹は勝者であり、柏木は敗者であった。勝者に敗者のことをおもうゆとりはなかった。  勝ち誇った矢吹を手ぐすねひいて待っていたものは、新入社員の特訓《しごき》である。 �菱銀�の特訓は、短期養成を目指したモーレツ型として、業界でも聞こえている。富士の裾野《すその》にある同行研修所に一か月カンヅメにされた新入社員は、ここで銀行業務のABCから、菱井銀行員としての心構えを徹底的に叩きこまれる。  朝六時起床、マラソンからはじまって就寝の十時まで、びっしりと日課がつまっている。この間、面会、外出、アルコールは禁止、読む物も菱井史や菱銀史など、会社側から与えられたものに限られる。  この一か月のあいだに、いままで大学でノンビリ過ごしてきた連中に菱銀精神を叩きこみ、すじ金入りの菱井マンに�人間改造�をするのが、狙《ねら》いである。  入社試験を通って、いささか鼻を高くしていたペーパー秀才たちは、このハードトレーニングによって自分の非力をいやというほどおもい知らされた。  特訓が終わって配属がきまった。矢吹の配属は本店経理部の計算センターである。新入社員でいきなりここに配属させられるのは、珍しいことであった。  菱井銀行も最近コンピューターを導入して、全国支店と本店を直結するオンライン・システムが完成された。菱銀の全国支店における預金の受払いは、即時《リアルタイム》に中央処理装置に送られて処理される。  すべてのデータが、即時、日計表に集中されて、損益計算書や貸借対照表に結ばれてゆく仕組みになっている。  このオンライン・リアルタイムシステムの中央統御をするのが、矢吹が配属された本店内の計算センターである。いわば菱銀の脳髄のような部署であった。  ここへ研修明けと同時に配属された矢吹は、支店の窓口や、外まわりに就《つ》けられた同期の仲間から大いに羨《うらやま》しがられた。 「おれはエリートなんだ」  矢吹は、ますます自信を強めた。      3  矢吹は配属先で能代《のしろ》聡子を知った。聡子は電子計算機のメーカーが、機械の操作法を銀行側に教えるために派遣した技術者《プログラマー》の一人である。  計算機の本体をハードウェアと呼ぶのに対して、それを利用するためのプログラム全体に関することをソフトウェアと呼ぶが、聡子はそのソフトウェアの一部というわけである。  年齢は矢吹と同じくらいで、目元が涼しく、愛くるしい顔をしている。気だても優しい。計算室の中では「ミス・コンピューター」と愛称されている。  矢吹はたちまち聡子に惹《ひ》かれていった。しかしどんなに惹かれても、彼女に近づくきっかけがなかった。  聡子は計算室では人気の的である。家庭もよさそうだし、一流の女子大を出ている。エリート揃《ぞろ》いの行内でも、彼女に野心を燃やしている男たちは、決して少なくはなかった。  そんな彼女に、入ったばかりの矢吹が、アプローチしたら、古参行員にいっぺんにマークされる。  特に計算センターの室長は、仕事の厳しさにかけては定評がある。ルーズな勤務ぶりや、仕事のミスがあると、古参、新人であろうと容赦しない。  彼が入社試験のコンピューター判断の総括責任者であり、柏木の自殺に際しても、「そういう弱者を見つけだしたコンピューターは結局正しい」とうそぶいた当人である。  名前は納見《のうみ》というが、みなかげへまわると「鬼見」と呼んでいた。  矢吹は実のところ、彼の目が恐ろしかった。仕事に全力を傾けるべき新人の時代に、社内で恋愛|沙汰《ざた》などをおこしたら、納見の心証は決してよくならないであろう。  当分のあいだは仕事オンリーで、上司に認められなければならない。  矢吹は、聡子からの吹きつけて来るような蠱惑《こわく》に耐えて、仕事に励んでいた。  矢吹は、学生時代のアパートを引きはらって銀行の独身寮に入った。一人一部屋が与えられ、設備はデラックスホテル並みである。  いままでの三畳の安アパートとは、比べものにならなかった。このような豪華施設の住人となれたことも、矢吹のエリート意識をくすぐった。  寮は、都心から四十分ほどの私鉄の沿線にある。途中のターミナルで国電に乗り換える。  ある日勤めを終わって、寮へ帰る途上、矢吹はターミナルのプラットホームに倒れている労務者風の男を見た。  ホームの最も人通りの激しい箇《か》所で、人の流れは、そこを岩に堰《せ》かれた激流のように避けて通っている。通行妨害であり、労務者にとって危険でもあった。 「酔っぱらいかな?」 「いやあねえ」  乗客たちは眉《まゆ》をひそめてささやき交わしたが、手を貸して、安全な場所へ移してやろうとする者はない。  だれもが家路を急いでおり、酔っぱらいなどにかかずらっているひまはないのである。  それに下手《へた》に手を出したら、からまれるかもしれないという不安がある。  矢吹もその労務者を認めた。 「危いな」と彼は思った。体を一回転させれば、線路へ落ちるような場所だったからである。 「もしこれが、まともな服装をしている人間だったら、群衆もこうまで冷たく通りすぎないだろうにな」  とおもうと矢吹は、その労務者風の男が、ちょっと可哀想《かわいそう》になった。よく見ると、酔っている様子でもない。そういえばまだ酔いつぶれるには少し早すぎる時間である。  体の具合が悪くなって行き倒れたらしい。  矢吹は男の体に手をかけて、軽くゆすった。 「もしもしどうしました? こんなところに倒れていては危険ですよ」  労務者はうすく目を開いた。その目に必死の哀願がある。  何か言おうとしたらしいが、かすかなうなり声となっただけである。口もきけないほど苦しいらしい。彼はしきりに胸を指した。 (心臓の発作か?)  とすれば、手当ては一刻も急がなければならない。ともかく、矢吹は彼の体をベンチに移すことにした。  労務者を抱き上げながら、群衆に向かって、「どなたか、駅員と救急車に連絡してくれませんか」と呼びかけた。 「私が行きます」  と群衆の中から率先して走りだした若い女がある。それが能代聡子であった。労務者は手当てが速かったので救《たす》かった。  これをきっかけにして、矢吹と聡子のあいだに交際が生まれた。  注意深い矢吹は彼女との交際を外部だけに限定して、部内ではいままでどおりを装ったので、二人のあいだに特殊な感情がすすみはじめたことには、気がつかれなかった。  部内で他人行儀を装うということ自体が、すでに彼らの感情に、男女間の傾斜が含まれていることの証拠であった。傾斜は速やかに増して行くようである。  聡子の家が、寮と同じ方角なので、二人はいっしょに帰ることが多かった。そんなときは、必ず途中のターミナルで�道草�をする。  最初はお茶を喫《の》み、すぐ食事にエスカレートした。  そんなある夕方、聡子はあるレストランで対《むか》い合っているとき、光の屈折率のよい黒目をくるりとまわしながら言った。 「私ね、ミス・コンピューターと呼ばれるの、とってもいやなのよ」 「どうして?」  矢吹は聞きかえした。 「何だか私までが、コンピューターの一部みたいで」 「そんなことはないさ。きみは時代の最先端を行くコンピューター技術者じゃないか。きみは自分の職業を誇っていい」 「そうかしら?」  いつになく聡子は、疲れたような口調で言った。計算室の中では、いつも溌剌《はつらつ》として、周囲に新鮮な空気をふり撒《ま》いている彼女にしては珍しいことである。 「何か、いやなことでもあったの?」 「ううん」  聡子は子供っぽいしぐさで首を振ってから、「コンピューターが値打ちがあるのは、その利用技術《ソフトウエア》がついているからでしょう。それならば、ソフトウェアの一つとして機械といっしょにあちらこちらとまわされている私は、コンピューターの付属品のような気がして」 「そんな考えはおかしいよ。きみはコンピューターの付属品どころか、それを駆使する主人じゃないか。今日のきみはどうかしている」 「矢吹さんは、いまのお仕事おもしろいとおもって?」  聡子は、顔をあげてきいた。 「そりゃあね、何といっても全菱銀の中枢の部署だから、おもしろくないほうが、おかしいんじゃないのか。きみはもっと自分の仕事を信じなければいけないよ。未来を先取りする職業として、コンピューターを信じるんだ」  矢吹が言葉を励ますようにして言うと、 「それもそうね」  と聡子は、いつものように生きいきとした表情に戻ってうなずいた。だがその表情の陰に一瞬チラリと走ったような軽蔑のまなざしに、矢吹は気がつかなかった。  矢吹と聡子との仲は、速やかに接近した。矢吹が好感をもち、聡子のほうも憎からずおもっている男女の感情の交流は、言葉より先行した。  計算室の中には人間的情緒はない。全国支店を結ぶセンターは、一刻の中断もなく情報の取集《しゆしゆう》とリアルタイムシステムによる指令の発信が行なわれている。人間はこの永久作業をじっと見守っているだけで、ほとんど、介入する余地がない。それは静寂の中に極端化された緊張の世界である。  これの反動のように、二人は銀行の外へ出ると奔放になった。  特に聡子は、別人のように大胆になった。初めて異性というものと交際した矢吹は、恋のステップを、むしろ聡子にイニシアティブを取られて一つ一つ越えて行ったのである。  すでに唇を交わし、最後のものを許し合うまで時間の問題となったとき、矢吹は小さなミスを犯した。  ミスとはいえないほどの取るに足らないことだが、これが彼に致命的な影響をあたえることになった。  その日の昼休み、二人は屋上へ出た。都心の空はスモッグに汚れていても、いちおう空としての広がりがある。少なくとも、白い壁に囲まれた計算室よりはよかった。隅の目立たないベンチで楽しく語り合っていた彼らは、ついその中に埋没して、午後の始業のコールサインが鳴ったことに気がつかなかった。  急に人影のなくなった屋上に、ハッとしたときは、すでに一時を十分ほど過ぎていた。彼らはあわててオフィスへ駆け戻ろうとした。  生憎《あいにく》なことにエレベーターがなかなか来ない。 「階段のほうが早いわよ」  聡子にいわれて、そちらのほうへまわった。人影のないのをいいことに、二人は手をつないだまま駆け下った。慌てていたので、つい警戒心もうすれたのである。  不幸は突発的に起きるものだ。彼らのオフィスがある階《フロアー》へ近づいたとき、曲折式の階段の踊り場のかげから、一人の男が業務用書類をかかえて、小走りに上がって来た。  納見室長である。ハッとして二人が手を振りほどく前に、納見はジロリと無機的な目を彼らに注いだ。  二人の�仲のいい様子�は、何の遮蔽《しやへい》物もおかずに納見の視線に晒《さら》されてしまったのである。  顔色を変えて立ち竦《すく》んだ二人の前で、納見は何も言わなかった。無言のまま腕時計を覗《のぞ》いて、上の階へのぼって行った。  その日、退社の時間が迫ったとき、矢吹は室長のデスクへ呼ばれた。 「何故《なぜ》呼ばれたか、わかっているだろうな」  納見は、椅子《いす》にかけろともいわずに、白い視線を向けた。 「はい、申しわけありません」  矢吹は、ただひたすらに謝るつもりであった。たとえ十分の遅刻とはいえ、時間に厳しい納見に対しては、弁解の余地がない。  まして、すでに勤務時間に入っているにもかかわらず、女子と手をつないで、やに下がっているところを見られてしまったのだ。新入りの分際で不謹慎この上ない態度と映ったことであろう。 「きみに謝ってもらおうなどとはおもっていない」  納見は、うすい唇に、うす笑いをのせていった。額が広く、あごの細い下すぼみの典型的な逆三角の顔は、およそ感情というものに乏しい。鼻梁《びりよう》は高く、目は白目がちで細い。そこにうす笑いを浮かべられると、もともと酷薄な人相が、いっそう強調される。  納見は、自分の造作のそういう効果を意識して笑ったのかもしれない。 「ただ一つだけ言っておきたいことがあってね」 「とおっしゃいますと?」  何となく含んだもののいいかたに、矢吹は無気味な感じを受けた。 「なに、簡単な引き算だよ。十二から一を引くといくつだな?」 「それは……」  答えをいうのが、何となく恐ろしかった。何か底があって、こんな簡単な計算をさせようとしているにちがいない。 「そう、答えは十一だ。十二あるべきところから、一つが欠ければ十一だ。しかしどうしても十二の員数は必要となれば、欠落した一つの代りに、員数外だった十三番めを新たに加えなければならない。その意味がわかるかな?」  納見は白い視線を突き刺すように矢吹に向けた。意味は何だかわからないながらも、彼の視線が含んだ悪意はわかった。 「よくわからないようだな。説明してやろう。十二という数字は、きみが入社したときの学卒者の採用人数だ。マイナス一というのは、自殺した柏木とかいう男のことだよ。欠落した員数を補うために、繰り上げ追加した十三番目が、だれのことを指すか、これも説明してやらなければわからないかな」  納見がまたうすく笑った。唇の端だけで笑って、目は白々と冷たい。  矢吹は、脳髄に痛打を食わされたように感じた。  そうか、そういうことだったのか。柏木はコンピューターのミスによって、トップの成績にもかかわらず落とされた。それの補充として繰り上げ合格したのが、自分だった。  コンピューターがまちがわなければ、自分は最初から落とされていたのだ。矢吹を支えていたエリート意識が音をたてて崩れ落ちた。  納見は、その様子を小気味よさそうに見守りながら、とどめを刺すようにつけ加えた。 「いいか、きみはコンピューターミスのおかげで菱銀へ入れたのだ。本来、員数外の人間だ。いついかなるときもこのことを頭に刻んでおけば、これから勤務時間中に女といちゃつくようなことはできないだろう」  納見のデスクは、オフィスのいちばん奥まったところにある。部下のデスクとのあいだに何のスクリーンもない。彼らのやりとりは、残酷なまでに鮮明に、オフィスに居合わせた人間の耳に届いた。  もちろんその中に、能代聡子も含まれていた。  この事件を契機にしてせっかく親しくなった聡子とのあいだに何となく溝ができてしまった。二人は何とかしてその溝を埋めようと努めた。しかし努力すればするほどに、溝は深く大きくなっていくようである。  同時に、矢吹がコンピューターのミスによって入社したという噂《うわさ》が、行内に広がった。 「そんなことを、いまさら告げるなんて、納見はまったく鬼だな」  という同情的な声もあったが、大部分は軽蔑と興味本位の目で、矢吹を見た。そんな噂を知らないはずの人間までが、そういう目をして見ているような気がした。  この被害妄想的な矢吹の傾向が、聡子との溝の深化にいっそう拍車をかけた。  矢吹の心の中に、納見に対する憎悪が堆積《たいせき》されていったのは、このころからのことである。      4  コンピューターのプログラマーとオペレーターは、それぞれ異なる職種のはずであるが、日本でははっきりと分離されていない。  本来のプログラマーは、コンピューターの命令者である。コンピューターとしての威力は、柔軟性のあるプログラムを記憶してはじめて発揮される。プログラマーは機械に対する命令ともいうべきプログラムを編む者である。  コンピューターを猛獣にたとえれば、プログラマーはさしずめ猛獣使いだ。  この意味でのプログラマーは、コンピューターのメーカーそのものである。彼らが利用者《ユーザー》に提供するための共用性の高いプログラム群を開発して、�|柔らかい商品《ソフトウエア》�としてコンピューターの中に蓄積するのである。  最近は、メーカーは、ソフトウェアをパッケージ化してユーザーに提供する。だからユーザーは、機械の動かしかたや、プログラムの約束事さえ覚えれば、だれでも自在に操れるようになる。  したがってプログラマーと呼んでいても、実際には、これらコンピューターの職人にすぎないオペレーターを指している場合が多い。ただメーカーが開発したプログラムだけでは不十分なとき、ユーザーが独自のプログラムをつくることがある。  これをユーザーズ・プログラムというが、これの作製を担当するのが計算センターである。しかし、その場合でも本来のプログラムの補助的なものをつくるだけであるから、プログラマーと呼ぶより、プランナーとか記号作製者《コーダー》と呼んだほうが正確である。  社歴の浅い矢吹は、このプランナーや、コーダーすらもやらされない。�コンピューター使い�どころか、コンピューターの従者というところが、彼の職分の最も正確な姿であった。  機械の性能は優秀で、故障はめったにしない。全国支店とオンライン・システムで直結された計算センターには、中断というものがない。機械を見つめて、待つだけの生活である。  何を待つのか? 退社時間がくるのを待つのである。しかし眠っているわけにはゆかない。機械が動いているかぎり、監視していなければならない。  機械の監視労働は、極端な緊張の持続を要求されるが、人間的な思考判断はあまり求められない。つまり、労働が充実感を伴った快い疲労に結びつかないのだ。働けば働いただけ、機械が摩滅したのと同じような、時間を無意味に失った者の消耗感だけが残る。  最初のあいだは、矢吹のエリート意識と、新人としての仕事への好奇心が、この消耗感を吸収していた。  しかし、納見にあのこと[#「あのこと」に傍点]を告げられてから、そんなものは破片《かけら》もなくなってしまった。  あるものは、単調労働の疲労と、その労働すら、お情けで与えられているという屈辱感の上塗りだけである。  能代聡子との仲は、彼女の出向が終わって帰って行くと同時に終わった。もはやあのころのように、毎日毎日生きているのが楽しくてたまらない、生きている手ごたえのようなものは、一生感じられないだろう。  人生の最も実り多い時期を、菱井銀行という巨大な檻《おり》の中に、定年という刑期が明けるまで閉じこめられるのだ。  何の喜びもない、ただ品物がある場所におかれているようなつまらない生活だが、矢吹にも一つのささやかな願望が残っていた。  彼は、自分をコンピューターミスによって採用した当事者の納見に復讐《ふくしゆう》してやりたかった。自分を、員数外と嘲《あざけ》り、能代聡子との仲を破壊した男への復讐。それだけが、矢吹の終身犯のような生活の唯一の支えだったのである。      5  昼休みのひととき、矢吹はひとり屋上に出てボンヤリと空を見ていた。以前には能代聡子がすぐ隣りにいたものだ。 「銀行やめるの?」 「ええ」 「お嫁にいくのね」 「うんといいたいけど、残念ながらそうじゃないのよ」 「じゃあどうして?」  能代聡子の面影を、もやいがちな空に追っていた矢吹に、かたわらのベンチに坐《すわ》った女の会話が届いた。  特に親しくはないが、二人とも同じ計算室の所属である。一人は入社が矢吹より一年前の、女子としては中堅、もう一人は最近入ったばかりの新人である。社歴は異なっても、この二人は仲がいいらしく、いっしょにいるのを見かけたのは、いまが初めてではない。  盗み聞くつもりはなくとも、同じ所属の女の会話にはつい耳がそばだつ。 「べつに、ただ何となくいやになったのよ」 「とか何とかいっちゃって、やっぱりいい縁談がまとまったんでしょ」 「ちがうったら、あなたはまだ若いからいいけど、そのうちいやになってくるわよ。OLなんて長く続けるもんじゃなくてよ」  そうしみじみと言ったのは、年嵩《としかさ》のほうである。 「どうして?」  若いほうが聞く。 「会社の仕事の厳しさはね、女の優しさとは相反するのよ。長く勤めていればいるほどカサカサしてくるわ」 「そうかしら?」  若いほうは、そう言われても実感となって迫らないらしい。 「会社っていうところは、戦場と同じなのよ。男のひとはさしずめ兵隊さんね。社長さんから平社員までの階級に縛られ、合理化とか能率化とかで毎日シゴかれて、軍隊とまったく同じだわ。私たちは、看護婦ってとこかしら。それも従軍看護婦ね、戦場には女の幸せはないわ」 「でも家に閉じこもっても、もっとつまらないとおもうけど。結婚前は母親の家事のお手伝い、結婚したら、それに育児が増えるだけ。そんなのいやだなあ」  若いほうは空を見た。まだ十分に未来に期待を寄せている目をしていた。年嵩のほうは、それに羨しそうな視線を送りながら、 「いまのうちに精いっぱい青春を愉《たの》しんでおくのね。私のようになったら、もうおしまいよ。私、もう疲れたわ。預金口座ごとに預金残高に利率を掛けて支払利息を算出する仕事にはあきあきしたのよ。このまま同じ仕事をつづけていたら、何だか自分が静かに発狂していくみたいで」  古参のほうは、矢吹と同じような心境にあるらしい。何気なく聞いていた彼は、急に興味をもった。 「おもいすごしだわ」 「あなたにはまだわからないのよ。そうね、あと二年もしたら必ずわかるわ。ここの戦場には音がないのよ。爆弾も破裂しないし、兵隊たちの喊声《かんせい》も聞こえないわ。だから恐いのよ。何の音もしない静まりかえった戦場。そこで毎日激しい戦争が行なわれている。あなたにはこの恐ろしさがわかって? 私そういうところにもう三年もいたのよ。もうがまんができないわ」 「ノイローゼよ」 「そうかもしれない。でもこのノイローゼは銀行をやめないかぎり絶対なおらないわ。もういや。たくさんだわ。自分の青春を売っていくら利息を弾《はじ》きだしても、結局|端数《はすう》は切り捨てられるだけ。切り捨てられる計算のために青春を磨《す》り減らすのは、もうまっぴらだわ」  古参の女が言ったとき、午後の始業のコールサインが鳴った。  二人の女はそそくさと立ち上がって、自分の職場へ戻って行った。他にも屋上で塊《かたま》っていた行員が、波の退《ひ》くようにビルの中へ吸いこまれて行く。  それを傍観者の目で見送りながら、矢吹はベンチから立とうとしなかった。急に閑散となった午後のビルの屋上で、彼は女の子が去りぎわに言った「切り捨てられる計算」という言葉を呪文《じゆもん》のように口中でくりかえしていた。      6  計算センター室長の納見は、ここ数週間どうも気分がすっきりしなかった。納見は仕事の几帳面《きちようめん》なことにかけては行内でも定評がある。  会議などでも、納得のいかないところがあると徹底的に食い下がってくるので、会議に納見が出るということを知ると、出席を渋る者もあるくらいだった。  彼がこういうブルーな気分にいるときは、肉体的な変調よりもむしろ、仕事がうまくいかないときのほうが多い。  いま彼がすっきりした気分になれないのは、単に仕事がうまくいかないからではない。いやむしろ、仕事は万事うますぎるほど順調に運んでいる。  それでいながら、どうもおもしろくない。何が原因なのだかよくわからないが、とにかくおもしろくない。精密機械のすべての歯車がスムーズにまわっているときのような爽快《そうかい》な�全輪稼動�の充実感がない。  どれかの歯車の動きが、偽りのような気がしてならないのだ。その歯車がどれか、そしてそれが本当に偽りの回転なのかどうかもわからないことが、彼のうつうつとしている理由であった。 「自分のおもいすごしかな?」  とおもうのだが、納見は多年積み上げた自分の職業的なカンを信じた。 「いや、どこかに必ず欺瞞《ぎまん》がある。いまの仕事の進行は、絶対に健康なものではない」  納見は浮かぬ顔をしながらも、コツコツと自分の鬱屈《うつくつ》した気分を調べていた。  納見の浮かぬ顔と反比例して、矢吹はよみがえったようになった。  顔色が生きいきとしてきた。動作に張りがある。声に弾みがある。納見の前では竦《すく》んだようになっていた矢吹が、まるで別人のように元気になった。  当然、納見の目にとまった。もともと彼は矢吹をあの事件以来あまり信用していない。秘《ひそ》かにそして厳しい監視が矢吹の周辺に張りめぐらされた。しかし矢吹の仕事にはう[#「う」に傍点]の毛で突いたほどのミスもなかった。 「彼の扱った仕事は、完全無欠です。すべて帳簿に穴はなく、数字はピタリと合っています」  内偵を命じられた監査官は、納見に報告した。 「完全無欠か」  納見は憮然《ぶぜん》としてつぶやいた。しかしもともと彼のすっきりしない気分は、すべてが順調なところに発しているのである。  解明のヒントは、普通預金の窓口担当者と預金客との小さな会話によってもたらされた。 「小さなことですが、支払い利息はいつも円単位で通帳に加算されていますが、利率によっては、銭もあるのではないのですか?」 �窓口�の回答を、ちょうど用事があってその近くを通りかかった納見が小耳にはさんだ。何気なく聞き流して通りすぎようとした彼は、その場に硬直した。  納見はついに�偽りの回転�を発見したのである。  自席へ戻った彼は、 「総預金額の利息額と、各預金口座ごとに算出した支払い利息の計数表をもってきたまえ」  と部下に命じた。  やがて届けられた二つの書類を見比べた納見は自分の発見が正しかったことを認めた。彼はその場へ監査官を呼んだ。 「この二枚の計数表を見比べてみたまえ」  彼は、書類を監査官の前へ差しだした。 「ピタリと一致しておりますが」  監査官はいぶかしそうな視線を向けた。 「ピタリと合っていることが、おかしいとはおもわんかね」 「…………?」 「いいかね、片方の表は、個々の預金口座ごとに預金利息を計算した合計で、各口座の円未満の端数利息は切り捨ててある。もう一方の表は、総預金額に利率をかけて算出した利息の合計額だ。つまり各口座の端数を切り捨ててない。この二つがピタリと一致するのは、おかしいじゃないか」 「あ!」  監査官は叫んだ。この場合、二つの計数表は合わないのが当然で、合うほうがおかしいのである。計算が合ったから専門の監査官も不審におもわなかった。  むしろこの場合、専門が不正の発見を妨げた。監査官は、不一致を摘発するプロフェッショナルだったからである。 「だれかが切り捨てた差額を着服しているんだ。各口座を徹底的にチェックしたまえ」  納見は監査官に命じた。調査の結果はすぐに出た。  だが何故か監査官は、報告をためらった。 「いったいだれが着服していたんだ。その獅子身中《しししんちゆう》の虫はだれだ?」  納見に問い詰められた監査官は、ついに一つの名前をあげた。 「な、なんだって!?」納見は愕然《がくぜん》としたあまり席から飛び上がった。  何と、その名前は納見自身だったのである。 「私も、何かのまちがいだとおもいます。なお詳しく調べてみますから」  監査官は慰め顔にいってくれたが、呆然《ぼうぜん》とした納見の耳にはその言葉はすでに届かなかった。  調査を進めるにしたがって、さらに事件の詳細が浮かび上がってきた。  これはコンピューターを利用した新手の犯罪であった。すなわち、各預金口座ごとに支払利息を計算するとき、円未満の端数を切り捨てるのに目をつけて、そのとき出る端数を、全部合計して、自分の預金口座へ加えるようなプログラムを組んでいたのである。一口座ごとにはわずかな額であるが、菱銀の全口座を合計すると巨額になる。  これの犯人が、計算センター室長自身だったことが、銀行の幹部に衝撃を与えた。  納見はまったく身に覚えのないことだと抗弁したが、彼の名前でカードパンチが秘《ひそ》かに発注されていた事実が浮かんで、その抗弁を粉砕した。  信用を重んじる銀行側は、表沙汰《おもてざた》にしなかった。納見を懲戒処分にしただけで、事件はにぎりつぶされた。  彼が銀行を追放されたとき、ひとりほくそ笑んだものがある。  矢吹邦彦である。彼がこの事件のうらの主役であった。彼はこのたくらみのために、切り捨て端数を全部合計して、納見の口座に加えるようなプログラムをひそかに組み、オペレーターの交替時を狙《ねら》って、コンピューターに記憶させたのである。  納見に言い逃れを許さないために、彼の名前でカードパンチも発注しておいたのだ。  仕事の鬼の納見が、独自の嗅覚《きゆうかく》で不正を嗅《か》ぎつけ、その正体を突き止めてみれば自分自身だったとは皮肉である。 「ざまあみろ! コンピューターミスによっておれに�員数外の屈辱�を与えた貴様は、いまコンピューターが正しい演算をしたために、営々として築き上げた地位を失った」  ひそかに陰惨な笑みをもらした矢吹は、自分自身が、納見そっくりの、感情を喪失した、静かな発狂者の顔になっていることに気がつかなかった。 [#改ページ]   肉食の食客《しよつかく》      1  私の父は、おじを憎んでいた。父のその憎悪を相続して、私もおじが大嫌いだった。おじは、父の弟である。ふつうの弟ではない。父の父、つまり祖父が女中に手をつけて生ませた子なのである。  したがって父にしてみれば、半血兄弟でありながら、その母(私の祖母)から夫(私の祖父)を盗んだ女の生んだ子であった。  おじの生母のうた[#「うた」に傍点]は、無教養な容貌《ようぼう》の醜い女であった。臼《うす》のようにたくましい腰と、樽《たる》のようにふとい胸をもった女で、S県の穀倉地帯といわれる郷里の村きっての大地主であった私の生家|永尾《ながお》家の小作農の娘であった。  うた[#「うた」に傍点]の家は、代々家族ぐるみ私の家に仕えていた。いわば、領主に対する家臣(それもお目見得《めみえ》以下のごく身分の低い)のような間柄であった。  おじは、祖父が賤《いや》しい下婢《かひ》に手をつけて生ませた子だった。  祖母は、県庁所在地の銀行家の娘で、女子専門学校を出た、当時の女性としては最高のインテリであった。  私の幼な心にもいつもキリリと身だしなみを整えた祖母の気位の高い白い顔が残っている。調った目鼻立ちだが、能面のように表情に乏しい顔だったようである。  孫の私にも厳しかった。いたずらをして、ものさしでぴしぴし叩《たた》かれたり、灸《きゆう》を据えられたときの痛覚や熱感をいまでも体がおぼえている。  祖母には隙《すき》というものがまったくなかった。眠っているときでも目を開いているような気がした。私は、祖母の寝ている姿を、臨終のとき以外、見たことがなかった。  朝はだれよりも早く起きだして、大勢いた使用人をきびきび指図していたし、夜はだれよりも遅く寝た。使用人は「大奥様」といって、祖父よりも恐れていた。  それに反してうた[#「うた」に傍点]は、いつも居眠りばかりしていた。風呂《ふろ》を焚《た》きながら居眠りをして、危うく火事になりかけたこともあったそうだ。父の幼いころ、その守《もり》をしていて、ついうとうととしている間に父はちょこちょこと走りだして、川にはまって危うく溺《おぼ》れかけたこともあったという。  以来、うた[#「うた」に傍点]には責任を伴う仕事はいっさい命じられなくなった。多少ミスをしてもどうということはない家畜の世話やごみの始末が彼女の役目になった。私の生家で、うた[#「うた」に傍点]はつまり家畜同様に、あるいは家畜以下に扱われていたのである。人間らしい知性をもち合わせていないうた[#「うた」に傍点]は、それをべつに不服にもおもっていなかった様子であった。  祖父は、そんな女に手をつけたのだ。しかし私自身、成人してから、祖父が出来心とは言えうた[#「うた」に傍点]に手を出した心理がわからなくはない。うた[#「うた」に傍点]はなにからなにまで祖母と正反対の女だった。容貌から性格まで、すべて祖母の裏返しであった。  きっと夫婦の閨房《けいぼう》の中ですら最小限度にしか体を開かなかったであろう祖母に比べて、うた[#「うた」に傍点]は、おもいきって淫奔《いんぽん》で、体自体が男の玩弄《がんろう》のためにのみつくられていたようである。祖母が教養ある貞婦であれば、うた[#「うた」に傍点]は発情したメスそのものであったのだろう。  うた[#「うた」に傍点]は妊娠した。性能のいいメスの器官は、最小限の交渉で祖父の種子を捉《とら》えた。祖母は激怒した。夫の裏切りよりも、うた[#「うた」に傍点]のような程度の低い女に夫を盗まれたことに、ひどく誇りを傷つけられたのである。  うた[#「うた」に傍点]は即刻、生家に帰された。そこで身二つになると、子供だけ(私のおじ)は、祖母に引き取られた。そこが祖母の祖母たる所以《ゆえん》なのだろうが、たとえ賤しい女の腹を借りたとは言え、由緒ある永尾家の血筋を、下人に預けてはおけないというのであった。  おじは永尾家に引き取られ、父の弟として育てられた。気位の高い祖母は、夫を盗んだ憎い女が生んだ子供でありながら、表面上は実子とまったくわけへだてをしなかった。しかしそれが祖母の夫に対する執念深い復讐《ふくしゆう》であったことは、私がこの齢《とし》になってからわかったのである。  うた[#「うた」に傍点]は、おじを生んでから一歩も永尾家に寄せつけられなかった。その後、行商人とデキ合って駆落ち同然に行方を晦《くら》ましてから消息は絶えた。  おじは、新吉《しんきち》と名づけられて、永尾家の一員として成長した。うた[#「うた」に傍点]の血筋を引いているせいか、規律正しい永尾家の中で新吉一人が異端児であった。父から聞いた話だが、永尾家の子供は、すべて級長か副級長をつとめて、「秀才きょうだい」と呼ばれていたのに、新吉だけが、落第すれすれであった。しかし決して落第はしない。いつもビリから二、三番めの所に辛うじてぶら下がっている。そのへんの技術[#「技術」に傍点]は、見事といえば見事であった。 「級長などは、勉強さえすれば、だれだってなれる。けれども、落第すれすれのところで進級するのは、ものすごく難しいんだ。一歩まちがえれば、落第してしまうんだからな」  新吉は、妙なところで自慢した。  永尾家では、朝食は必ず家族、使用人いっしょに食べる習慣があった。ところが新吉だけは遅刻した。それでも祖母が生きているうちは、仕置が恐いのでしぶしぶ起きてきたが、彼女がいなくなってからは、一人だけ眠りたいだけ朝寝坊をした後、寝すぎてむくんだ顔を昼近く食事室に出して、女中に食事の支度をさせた。  父のきょうだいたちが、教育を終えてそれぞれ立派な職業に就いたり、良家に嫁いで行った後も、新吉は、法外な入学金を積んでようやく入れた三流大学を六年かかって卒業したが、どこにも就職せず(事実は二、三就職したのだが生来の怠惰と無責任からどれも長つづきしなかった)に、長男として家を継いだ私の父の許《もと》にごろごろと居候《いそうろう》をしていた。  新吉は、終日なにもせずに寝転がっていたが、当時幼かった私の顔を見る都度「おまえたちはわしを大切にしなければいかんぞ。おれはこの家の財産の何分の一かの相続権を保留しているんだからな」と言った。  保留[#「保留」に傍点]という意味がいまだによくわからないが、新吉としては当然要求できる権利を要求しないでいるというような意味あいであったのかもしれない。  しかし実際は、祖父が永尾家の財産(土地)の分割されるのを恐れて、新吉にはほぼ法定遺留分に相当する有価証券を、彼が大学を卒《お》えて就職したときにあたえていたのである。  新吉は、その有価証券をわずか数カ月の間に競馬競輪のたぐいのギャンブルで失っていた。その後で、あのとき分けてもらった有価証券は、被相続人が死ぬ前によこしたものだから、相続にはならないなどと言いだしたのである。  私の父は、そんな新吉を憎んでいた。  相続問題のもつれや性格のちがいによる軋轢《あつれき》だけではなく、父には母の夫を盗んだ女の生んだ子という意識が強く働いていた。祖父を盗んだだけに飽き足らず、新吉が永尾家そのものを盗もうとしているような気がしたにちがいない。  父の、新吉に向ける憎悪の底には、祖母の、うた[#「うた」に傍点]に向ける憎しみが遺伝していたのである。  父が新吉を憎みながらも、家に居候させてやったのは、祖父が死ぬときに父の手を握り、「新吉を頼む」と言ったからである。  親孝行の父は、祖父の�遺言�に逆らえなかった。つまり父の新吉に向ける態度は、祖父と祖母の板ばさみになっていた。      2  まったくの無為徒食の新吉にも、一つだけ奇妙な�趣味�があった。それがはたして趣味と呼べるものかどうかわからないが、何事にも興味をしめさない彼が、それだけに対しては熱っぽくなることだけは、たしかであった。  新吉は、なぜか蟻が好きだった。季候が暖かくなってくると、彼は大地にしゃがみこんで、地上を忙しく動きまわる蟻をじっと見つめていた。何時間でも一つの場所にうずくまって、蟻を見つめて飽きなかった。  夏の暑い炎天下、長時間地上にしゃがみつづけて、ついに日射病にやられて家の中にかつぎこまれたことも、一度や二度ではなかったそうである。  怠け者の新吉が、勤勉な蟻に興味をもったのは、皮肉な取り合わせであるが、雇い人たちは、蟻の観察ならば一箇所にうずくまったままできるからだろうとかげ口をきいた。彼らはそんな新吉をひそかに「鈍吉《どんきち》」と呼んでいた。  新吉は、永尾家の雇い人たちからも蔑《さげす》まれていたのである。そんな視線を知ってか知らずか、彼は平然として居候をきめこんでいた。  新吉は、気が向くと、私に蟻の話をしてくれた。さすがに彼は蟻のことになると詳しかった。なにもせずにいつもごろごろしている新吉が、蟻について話すときは、人が変ったように目を輝かして、何時間でも熱っぽく語った。  私は、新吉から一口に蟻といっても実にさまざまな種類があることを教えられた。また同じ種族の中にも、女王蟻、職蟻《しよくぎ》(働き蟻)、兵隊蟻などの職能別の種類があることも学んだ。  蟻の活動は、いつも行列を組んで獲物を巣に運んでいるものとばかりおもっていたが、種族によって、行列型、隊伍型《たいごがた》、単独行動型に分れることも知った。 「でも、おじさんはどうして蟻が好きなの?」  と私は聞いた。 「本当はね、おじさんは蟻そのものはあまり好きじゃないんだよ」 「興味がないのに、どうしてそんなに熱心に見てるの?」 「これを見てごらん」  新吉は、近くの地中にあった蟻の巣を掘り返した。突然、居心地良い巣をこわされて、蟻は右往左往する。蜂の巣ならぬ「蟻の巣を突ついた」騒ぎである。 「ほら、これはトビイロケアリという蟻だけど、蟻以外の虫が、巣の中にいるだろう」  新吉は、掘り返した土の中を指さした。 「これ何の虫?」 「アブラムシやカイガラムシさ」 「どうしてそんな虫が蟻の巣の中にいるんだい?」 「この虫たちは、蟻の巣の客さ。いや居候といったほうがいいかな」 「蟻に居候がいるの? まるでおじさんみたいだな」 「そうさ。だからおじさんはこいつらが親類みたいにおもえてね、こいつらを養っている蟻を眺めるのが好きなのさ」  新吉は、悪びれずに言って、蟻の国の食客の話をしてくれた。グータラのおじは嫌いだったが、その話はおもしろかった。  彼らは蟻の国に居候して食物をもらい、外敵から保護してもらう。  蟻も彼らを無料では居候させない。食客たちは反対給付として、蟻の巣の掃除夫になったり、�ミルク�を蟻に供給したりするそうである。 「蟻のミルクって何だい?」 「アブラムシやカイガラムシを蟻が触角で撫《な》でると、蟻の好きな汁《ジユース》を出すんだ。これが蟻のミルクだ。蟻は居候代としてアブラムシたちからミルクをしぼるので、彼らは�蟻の乳牛�とも呼ばれる」 「蟻の牛がいるの?」  私は、その話を聞いたときびっくりした。 「ミルクだけでなく、酒を出す客もいるんだよ」 「蟻が酒を飲むのかい?」 「飲むとも。カメムシなどが出す汁《ジユース》は、蟻にとってよくない。カメムシのジュースを飲んだ蟻は、酔っぱらい、だんだんアル中みたいになって、ついに死に絶えてしまう。だから、居候が代金として置いていくものは、必ずしも蟻の栄養になるとはかぎらないのさ」 「ずいぶん恩知らずの居候もいるんだなあ」 「もっとひどいやつもいるよ」 「これ以上ひどいのもいるの?」  私は、新吉の話に完全に引きこまれていた。 「いるとも。蟻牛の中にシジミ蝶《ちよう》がいるが、この蝶の一種は蟻の巣の中に入ると、いままで草を食べていたのが、突然、化けの皮を剥《は》いで、蟻の幼虫や蛹《さなぎ》を食べてしまう。まあ、その蝶もひどいやつだが、そんな恐ろしい牙《きば》をもった蝶を、巣の中に連れてくる蟻も馬鹿だね」  新吉は、鼻の頭にしわを寄せて笑った。私はそのとき彼の笑いがなにかを含んでいるように感じたが、それが何を意味するものかわからなかった。  新吉は、あいかわらずのらくらと過していた。時折、一週間ぐらいふと姿が見えなくなることがあるかとおもうと、いつの間にか帰って来ていて、家の中でごろごろしている。私がどこへ行っていたのかと聞くと、蟻を見に旅行してきたのだと答えた。  蟻など、その辺の地面にいくらでも這《は》っているのにとおもったが、場所や高度によって住んでいる蟻の種類がちがうのだそうだ。  父は、いい年になりながら無為徒食している新吉を心配して、彼のためにいくつか縁談を探してきた。結婚すれば、責任感も湧《わ》き、家族のために人並みに仕事をする気になるだろうとおもったのである。  だが新吉は、なんのかのと縁談の相手に難くせをつけて、いっこうに乗り気にならない。父がしつこくこの辺で身を固めたほうがいいと勧めると、 「早く結婚させて、厄介ばらいをする気なんでしょう」  と開きなおる。父としては、すでに新吉に分けあたえるべき相続分はないのだが、新吉が真剣に人生の設計を考え、新しい生活のスタートを切るつもりならば、山林か土地のワンブロックを分けあたえてやってもよいと考えていたのである。 「どうぞご心配なく。私は妻などいなくとも、少しも不自由をおぼえませんから」とせせら笑って、父を怒らせた。  実際、新吉は永尾家のガンのような存在になった。だが母を異にしているとは言え、永尾家の血をひいている人間にはちがいなかった。ただごろごろしているだけで、特に悪いことをするわけでもないので、追い出す口実もない。  新吉は、「権利を保留している」という言葉をよく吐いたが、たしかに彼には永尾家に「居る権利」はあったのである。  私は、そんなおじを見て、蟻の国の食客にも劣るとおもった。カイガラムシやアブラムシは、蟻に養われる代償として、�蟻乳�を提供する。新吉はなにも提供しない。掃除や雑役すらしない。秋の収穫期で、家族や雇い人すべてが猫の手も借りたいほどてんてこまいをしているときでも、のうのうと寝そべっているか、例の蟻見物をしているのである。  新吉は、自分を永尾家の食客とはおもっていなかった。彼は永尾家の構成メンバーの一人と考えていたから、大きな顔をしていた。だがメンバーとしての家に対する協力はいっさいしないのだから、食客よりも程度が悪い。  父は、新吉を憎悪しながらも、なにも言わなかった。言ったところでどうにもならないとあきらめていたのである。      3  私が小学校へ入った年、永尾家に一大事件が起きた。新吉が私の母と手を携えて駆落ちしたのである。父の印鑑と預金通帳を持ち出して、かなりの金を引き出していたこともわかった。二人は、だいぶ以前から関係があったらしい。だがそれまで父はもとより、だれも彼らの仲に気づかなかった。  祖父を盗んだ女の子供は、今度は、私の母を盗んだのだ。父が激しいショックを受けたことは、幼い私の目にもわかった。母は、父を裏切っただけでなく、子供も捨てたのである。私には、二つ年上の姉がいた。まだどちらも小学校低学年の二人の子供を捨てた母の不倫の恋は、女の母性本能までも圧倒するほどに強く燃えていたことになる。  それだけ、新吉の誑《たぶら》かしは、徹底しており、父は完膚《かんぷ》なきまでに裏切られたわけであった。父は母の行方を探そうとしなかった。たとえ探し出せたとしても、二人の幼な子を捨てた母を無理に連れ戻すことはできないとおもったのだろう。父の絶望は深く、裏切られた怒りは大きかった。  私には、父の気持がよくわかった。私は、自分の母でありながら、父を裏切り、人間の屑《くず》のような新吉と通じた母を、赦《ゆる》せなかった。その気持は、いまでも変っていない。  母に逃げられて、父は新吉に縁談をもちかけたとき、「妻などいなくとも、少しも不自由はおぼえない」と言った彼の言葉におもい当った。母が新吉の性的飢餓を充たしてやっていたのである。新吉の言葉は、妻を盗まれていることを知らぬ愚かな夫《コキユ》に投げつけた侮蔑《ぶべつ》であったのだ。  私には、父以上におもい当ることがあった。新吉は、蟻の食客の話をしたとき、蟻の巣に入ると、正体を現わして、蟻の幼虫や蛹を食ってしまうシジミ蝶について語った。  あれは、自分自身をシジミ蝶になぞらえていたのだった。 「蝶もひどいが、そんな恐ろしい牙をもった蝶を巣の中に連れてくる蟻も馬鹿だね」と言って嘲《あざけ》るように笑ったが、あの嗤《わら》いは、父に向けたものだったのだ。  当時、小学校一年生の私には、「母を盗む」という行為が、具体的にどんなものなのかわからなかったが、それでいて、母が新吉に盗まれた事実は、痛いようにわかった。  新吉は、鼠が少しずつ餌《えさ》を引くように、ゆっくりと時間をかけて、母を盗んでいたのだ。盗む都度、新吉と母は二人して父のまぬけさかげんを声を合わせて嗤っていたのだろう。  私には、彼らの忍び嗤いが耳に聞えるようであった。  私の母は、子供の目にも美しかった。祖母のようにいつもキリリとしておりながら、祖母にはない柔らかさがあった。母が私の手を引いて外出すると、男たちが振りかえるのがわかった。  雇い人たちからも「若奥様」と慕われていた。あれは三、四歳のころだったか、夜中ふと目ざめた私は、かたわらにいるはずの母の姿のないのに気がついて、火のついたように泣きだした。  私の泣き声に母は、父の寝室の方角から慌てて戻って来た。  そのときの母の体は、なにかひどくなまぐさかったような気がする。もちろん当時の私の語彙《ごい》になまぐさいなどという言葉はなかったが、後になっておもい返してみると、あれはまさしくなまぐさいとしか形容できないにおいだった。後日になって私は、あのとき母が父の寝室に行っていたと納得したものだが、いまにしておもえば、彼女は新吉に抱かれていたのではあるまいか?  慌てて戻って来た母は、闇《やみ》におびえて泣いていた私を抱きしめてくれた。  あのとき父の体臭だとおもったものは、新吉の残り香であり、私を優しく包みこんだ母の体の柔らかなほの暖かさは、不倫の余熱だったのではなかろうか。  新吉と母の消息は、それ以後絶えた。かなりの金をもっていったので、すぐに生活に窮することはあるまいが、新吉の怠惰をもって徒食すれば、間もなく底をつくだろう。  父は、再婚をしなかった。父は、二人がいずれ戻って来るとおもっていたらしい。少なくとも母は、新吉の正体を見きわめて帰って来るだろうとかすかな期待をつないでいた様子である。  だが、母は帰らなかった。消息も完全に絶えたまま歳月が過ぎた。私は工科系の大学を出ると、精密機械のある大手メーカーに就職した。そして、その本社があるN市に移り住むことになった。老いた父は、私に帰郷して家を継いでもらいたがったが、私は、大地主とは言え、微温湯《ぬるまゆ》に浸《つか》ったような退屈な田舎の生活を嫌った。  結局、永尾家の家督は、私の姉が婿を迎えて継ぐことになった。父は私のために、山林の一角と、土地を割いてくれた。これだけでも時価一億五千万ほどの評価額になった。父はさらに、私が就職したN市に二百坪ほどの土地を買って家を新築してくれた。  間もなく私は、親類の世話で郷里の旧家の娘と結婚して、父が建ててくれた家に、新しい家庭を営むようになった。  新しい家の材木は、父が自分の持ち山から、良木ばかりを選んで伐《き》り出してくれたものである。最近の機能本位の殺風景なプレハブハウスと異なり、日本家屋の情緒と、現代的な住み心地のよさをよく考慮した、立地条件、設計、外観とも申し分のない家であった。  父は、家督を譲り、私の身もかたまったので、急に気がゆるんだのか、私が結婚してから老衰が目立つようになった。そして二年後の冬、ふとひいた風邪がもとで肺炎をおこし、あっけなくこの世を去ってしまった。  私は、父の死を母に報《しら》せることができなかった。母の消息は依然として不明だった。臨終の床で、父の目は、取り囲んだ親族一同を越えてだれかを探し求めていた。  私は、父が母の姿を探していることがわかった。父は、母を赦していたのだ。赦していただけでなく、母にそばにいてもらいたかったのである。  そんな父の、死期が迫ってもなお妻を探し求めている視線を見た私は、よけいに母を赦せなくなった。父は、母に逃げられた後、再婚しなかった。それを私は、私たち姉弟に対する考慮からと考えていた。だが、それだけではなかった。父は母を愛していたのだ。母に裏切られてもなお、父の心は母に向ける想《おも》いによって占められていた。そのために再婚を考える余裕がなかったのである。  これほど大きな父の愛を振り捨てて、母はいったいどこへ奔《はし》ったのであろうか? どうせしあわせな生活はしていまいが、夫に死が迫ったいま、どこの空の下で、どんな生きざまをしているのか?  私は、改めて母を憎いとおもった。そして母を盗んでいった新吉に対する憎悪をよみがえらせたのである。  父は死んだ。最後に私に向けた父の目の色の中に、「清《きよ》を赦してやってくれ」という、いまわの際《きわ》の頼みを、私は読み取った。「清」というのが母の名前である。だが、その母を探し出すすべを私はもたなかった。  父の荼毘《だび》がすむと、集まった親類縁者は、また八方に散って行った。死者の葬いとその追悼のために、人々はそれぞれの生活からあまり長い時間を割けない。  一時《ひととき》、逝《い》った人を嘆き、その追憶に浸っても、すぐに、自分の生きるための生活に戻らなければならなかった。  私も、父を失った悲しみから十分に立ち直れないうちに、仕事へ戻った。会社は、親子の死別の感傷すら、「忌中休暇」という数字をもって割り切ってしまう。  私も、いつまでも父を失った悲嘆に心身を委《ゆだ》ねているわけにはいかなかった。  私の勤めた会社は、精密機械メーカーの大手であり、欧米をはじめ東南アジアや中東諸国に広く、産業用機器、科学機器、電気機器、医療用機器などを輸出している。  私の担当は、精密測定器や光学測定器などの科学機器で、取引相手によって国内はもとより、海外の出張も多い。特に科学計測器は公害関連を中心に急速に伸びている。それだけに競争が激しい分野なので、気が抜けない。  さいわいにして、私は会社に認められた。入社数年にして、私は科学計測器の一部門を司《つかさど》るチーフとして、東南アジア地区をまかせられた。妻との仲も円満で、結婚二年めに長男が誕生した。公私ともになんの不足もない生活であった。  しかも私には、父が分割してくれた一億五千万の土地と山林があった。それも現在は値上りして、評価額三億を超える財産となっている。  母に幼くして捨てられ、また最近父を失ったが、私の人生は順風満帆の観があった。だが、この順調な人生航路に突如として不吉な暗雲を投げかけた者があった。      4  ある日、私が久しぶりに仕事が早くかたづいて定時に退社して来ると、玄関に見なれない男の靴があった。留守の間に客が来ているらしい。私は迎えに出た妻に、 「だれが来ているんだ?」とたずねると、妻はちょっと困ったような表情をして、 「私は、お会いするのは初めてなのですけれど……」とその先は言い難《にく》そうに口ごもった。 「いったいだれなんだ? おれの留守中にあまり得体の知れない人間をあげちゃいけないよ」  と妻を叱《しか》ると、私の帰って来た気配を聞きつけて玄関口へ出て来たその来客が、 「得体が知れないとはひどいことを言うねえ」  と声をかけた。相手の顔を見た私は、一瞬、亡霊でも見たかのように、その場に硬直した。私はまさしく二十数年も前の亡霊を見ていた。そこにその人間が突然現われたことが信じられなかった。 「新吉おじ……」  おもわずつぶやいたが、愕《おどろ》きが大きくて、後の言葉がつづかない。 「おいおい、そんな化け物でも見るような顔をしないでくれよ。正真正銘おれだよ。一別以来の挨拶《あいさつ》ぐらいしてくれたっていいだろ」  新吉はニヤリと笑った。新吉が母とともに駆落ちしたのは、私が小学校一年の七歳のときであったから、二十三、四年の歳月が経っているわけである。  その間、たがいの消息は絶たれたままであった。私は、一目見て、彼があれからどんな生きざまをしてきたのかおおよその察しをつけることができた。  彼の身体に進んだ老化は、醜い所だけをことさらに強調していた。顔面の皮膚がたるんで、そこに無数の汚ないしみが浮き出ている。歯並びが乱れて、唇をしっかり閉じられなくなっている。ゆるんだ唇の間から黄色いすき歯が覗《のぞ》いている。話すと、唾《つば》が飛んでくる。口の中にいつも白い唾液《だえき》がたまっているようである。  目は、どろんと濁って、白目の部分が黄疸《おうだん》でも患っているかのように黄色い。服装もくたびれている。てかてかに光った背広。ズボンの線はとうに消え、ネクタイもいちおうしめてはいるものの、まるでひもでもぶら下げているようである。ワイシャツの襟は黒くなっている。いかにも「尾羽うち枯らした」見本を示すような風態《ふうてい》であった。  そのくせ、目はもの欲しげに賤《いや》しい光を放っている。 「母は、どうしたんです?」  ようやく初めの愕きから立ち直った私は、彼といっしょにいるはずの母の消息をたずねた。 「まあまあそんなに慌てずとも、おじとおいが二十何年ぶりに会ったのだから、ゆっくり酒でも飲みながら話し合おうよ」  新吉は、いま出て来た奥の部屋の方角を、目で指ししめした。これまですでに一人で飲んでいた様子である。「おじ」を振りかざして、私の留守の間に上がりこみ、妻に酒を出させたのだ。  妻にも、新吉というおじがいることは、話してあった。永尾家の恥部のような人物なので、詳しい事情は話さなかったが、妻は夫のおじと聞いて粗略にも扱えず、いちおう座敷へ上げたものの、服装と態度が夫のおじとしてはどうも落ちるので、不審におもいかけていたのであろう。 「いや、けっこうな住居《すまい》に、すばらしい奥さんじゃないか。実は、当分置いてもらおうとおもってやって来たんだ」  新吉は、無遠慮な視線を家の中と妻の体に這《は》わせた。私はそこに好色のにおいを敏感に嗅《か》ぎ取って、ハッとなった。新吉は妻になにか仕掛けなかっただろうか? だが妻の様子を見ると、それは杞憂《きゆう》のようであった。いかに手の早い新吉でも、初めて訪れた家で、そこまでは進めなかったらしい。  しかし彼はいま容易ならないことを口走った。  ——当分置いてもらおうとおもって来た——  新吉はたしかにそう言ったのだ。彼にこの家に侵《はい》りこまれることをおもうと、戦慄《せんりつ》が背筋を走った。こんな男と一分いっしょにいても寒けがする。  どこで私の住所を探って来たのか知らないが、よくもおめおめとそんなずうずうしいことが言えたものだ。戦慄を意志の力で抑えた私に、激しい怒りがこみ上げた。 「あなたと話し合うことなんかなにもない。すぐ帰ってください。あなたなんか顔も見たくないんだ」  私は、声を荒らげた。 「おや、おまえさんの母親の消息を知りたくないのかね?」  新吉は、馬鹿にしたような声をだして、私の顔をずるそうに覗いた。 「あなたが母をそそのかして連れ出したんじゃないか。よくも私の前に顔を出せたものだな」  私の声は、衝動のような激しい怒りを抑える無理のために、震えた。母の消息を知りたくなければ、腕力で家の外へ放り出したところであった。 「これはますます人聞きの悪いことを言うねえ。私たちはおじとおいだからいいけれど、奥さんは、本当だとおもうよ。奥さん、決して私があなたのご主人の母親を連れ出したわけじゃないのですよ」  新吉は、妻の方へ向って猫なで声を出して、 「おたがいに納得ずくの家出だったのです。そりゃ、兄嫁と駆落ちした私も悪かった。しかし、誘われたのは、私のほうなんです」  ぬけぬけと言った。彼は自分の行為を少しも反省していないばかりか、すべての罪を母に着せようとしていた。 「いまになって何を言うか! 母はいったいどこにいるのだ」  私は、怒りのあまりに蒼《あお》ざめた。 「だから、これからゆっくり話そうと言ってるんだよ。どうだね、私はお腹が空《す》いているんだ。せっかく奥さんがいろいろと手料理をこしらえてくださっているところだから、それを味わいながら、ゆっくりと積る話をしようじゃないか」  新吉は、すでに勝手知った者のように、客間の方へ向った。私は、こんな人間を客間へ通した妻が怨《うら》めしかった。  客間には、一通りの酒肴《しゆこう》が出されてあった。銚子《ちようし》も何本か並び、料理の皿はいずれも汚ならしく食べ散らしてあった。新吉は、勝手に床の間を背にして坐《すわ》ると、盃《さかずき》を差し出して、 「まずは久しぶりの再会を祝して一献《いつこん》どうかね」と言った。  新吉の盃など、気持が悪くて受けられない。彼の使った箸《はし》や食器類は、すべて捨てようと、私はおもった。 「飲みたければ、どうぞ勝手に。それより母の消息を教えてください。駆落ちした二人の中《うち》、どうしてあなただけがここにいるのです?」  私は、怒りを抑えて、言葉を改めた。 「どうしてそんなに急《せ》くのかね?」  新吉は、酔いがまわって赤黄色く濁った目を向けた。 「どうして、すぐに教えられないのですか?」  私は切り返した。 「お清さんは死んだよ」  新吉は、なんでもないことのように言った。 「死んだって!?」  胸の片隅で予期していたことだったが、私の顔は引き攣《つ》った。 「そんな恐い顔をしてにらまないでくれよ。なにも私が殺したわけじゃ……」  新吉が言いかけたとき、私は抑制を忘れて彼に飛びかかっていた。 「どうして死んだんだ。言え! さあ言え、言わないか」  私は、新吉の襟首をつかんで、彼の身体を揺すった。新吉は大仰に悲鳴をあげて、救いを求めた。私は、妻に制止《とめ》られて、ようやく新吉の首にかけた手の力をゆるめた。 「おう痛え。あんまり乱暴しないでくれよ。危うく絞め殺されるところだった」  新吉は、赤くなったのどをこすった。 「さあ、早く言わないか、母はなぜ死んだんだ?」 「言うよ、言うからもう年寄りに乱暴しないでくれ。お清さんは、いまから十日ほど前にお腹に悪性の腫瘍《しゆよう》ができて死んだんだよ。病院に入れてちゃんと手当てをしたんだけどたすからなかった。嘘《うそ》じゃない。ちゃんと病院の死亡診断書をもらって、死亡地の火葬場で荼毘《だび》に付してから、こうやって遺骨をもってきてあげたんじゃないか。それなのに、ひどい人だ、あなたは」  新吉は、のどをまださすっていた。そう言われれば、彼のかたわらに、骨壺《こつつぼ》のような白布の包みが置いてあった。 「疑われるといけないとおもってね、病院の死亡診断書と死体埋火葬許可証の写しももってきたよ。この二つがないと、死体の埋葬も火葬もできないんだから、なによりの証拠だよ」  新吉は懐中をもぞもぞと探って、二枚の紙片を取りだした。それはたしかに母が死んだ病院と、死亡届を受けつけた役所が発行した死亡診断書と死体埋火葬許可証のコピーであった。死亡年月日は昭和四十×年一月二十×日つまりいまから十日前の日付になっている。  死因は「子宮絨毛上皮腫《しきゆうじゆうもうじようひしゆ》」という聞きなれない病名になっていた。偽造とはおもえないし、先方の病院と役所に問い合わせれば、すぐにわかることであった。どうやら母の死は確定的であり、その死因に犯罪の疑いはなさそうであった。  だがその死が犯罪に基因するものではなかったとしても、新吉との生活の無理が祟《たた》って死んだことは、推測できる。母は、夫と子供と家を捨てて新吉との不倫の恋を貫いたものの、苦労のしどおしであったのだろう。  腹部に悪性の腫瘍ができたと新吉は言ったが、それをつくったのは、彼にちがいない。診断書と許可証のコピーをもってきたのも、彼に母を死にいたらしめた責任が自分にあることの意識の現われではないか。  ——やはり、新吉が母を殺したのだ—— 「おい、変な疑いをもたないでくれよ。お清さんは本当に病気で死んだんだ。おれは最後まで看病してやった。礼を言ってもらいたいくらいだよ。いったいどこの他人が、こうやって息子の所へ母親の遺骨を届けに来るもんかね」  新吉は、私の険悪な形相を読んで、弁解した。  母が死んだ病院に問い合わせると、「死因となった『子宮絨毛上皮腫』という病気は、必ず妊娠した女性にだけ起きるのが特徴で、何度も流産したり、人工中絶を繰り返していると、ますます腫瘍は大きくなって全身転移を起す。手当てとしては早期発見による子宮の除去が最も効果的だが、彼女の場合、完全に手遅れで、病院にかつぎこまれたときは、全身の器官に飛び火していて手のつけようがなかった」ということだった。  私には、新吉が死亡診断書と死体埋火葬許可証のコピーを手まわしよくもってきた理由がうなずけた。彼は、母の体を玩《もてあそ》び、何度も妊娠させては、安易に中絶させ、そのあげくその体をボロボロにしてしまったのだ。新吉が母の体を滅ぼしたのである。  私は、父と私たち姉弟を捨てた母を赦《ゆる》したわけではない。だが、恋に殉じて、その心と体を焼きつくしてしまった彼女を不愍《ふびん》におもった。恋に殉じるとは、いかにも女の本懐であろう。だが母は殉じる相手をまちがえたのだ。新吉は、そのような愛の激しい燃焼の対象に値しない人間であった。彼は、女の心と肉体に巣喰《すく》う食客であった。女を蝕《むしば》んで生きているシジミ蝶なのだ。  私の新吉に対する憎悪は、新たに燃え上がった。私の憎悪に気がつかないというより、無視して、新吉は、おくめんもなく私の家に居坐ろうとした。私は、厳しく拒否した。こんな人間に侵《はい》りこまれたら、私のささやかな家庭はさんざんに食い荒されるであろう。彼の凄《すさ》まじい蚕食《さんしよく》ぶりは、私がこの目で見てきている。幼かっただけに、その印象は無地の心に強烈に刻印されている。  新吉が居坐っていた間、永尾家の秩序ある家風は紊《みだ》されっぱなしであった。清々《すがすが》しい家の中が、彼の身辺から腐りはじめ、腐蝕《ふしよく》の領域を広げていった。  そのあげくに父は妻と大金を奪われ、私たち姉弟は、母を失ったのである。 「そんな情《つれ》ないことを言わずに、この寄《よ》る辺《べ》のない年寄りを置いておくれ。わがままは言わない。物置の片隅でもいいんだよ」  新吉は、何度か追い返されながらも、足繁く通って来ては、殊勝な涙声をだして訴えた。新吉の正体を知らない妻は、その演技に欺《だま》されて、同情しかけていた。妻は私が彼女に気がねしているとおもったらしい。  そんな妻の表情を敏感に悟った新吉は、彼女にすがりはじめた。 「あなた、お気の毒じゃないの。さいわい家は私たち親子三人には広いし、使っていないお部屋もあるわ。あなたのたった一人のおじさんでしょ。私喜んでおせわするわよ」  妻は私に取りなした。 「馬鹿! きみはあいつの正体を知らないから、そんなことを言うんだ。あんなやつはおじでもなんでもない。獣以下の人間なんだ」 「まあ、ひどいことをおっしゃるのね」  私は、そのとき初めて、新吉が父を裏切り、母を盗んだ事情を妻に打ち明けた。 「そんなひどい人でしたの。とてもそんな人には見えないけど」  妻は驚いたものの、半信半疑の様子である。新吉の天性ともいうべき�食客根性�が、女性の母性本能をくすぐるのであろうか。 「あいつは単なる怠け者ではなく、希代の色魔なんだ。あんなやつを置いてみろ。さっそくおまえにちょっかいを出すにちがいない」 「まあ、まさか! いくらなんでもあんなお爺《じい》ちゃんが」  妻は、ころころと笑った。彼女は、新吉の恐ろしさと、自分の体にチロチロと向けられる陰火のような彼の好色の視線を知らないから、そんな笑いかたができるのである。現にここに蝕まれつくして一塊の骨片となってしまった女がいるではないか。骨になるまでしゃぶりつくしたあげく、その骨までも利用している。  新吉はどうやら母親の骨を�手《て》土産《みやげ》�にして、私の家に侵りこむきっかけをつかもうとしている様子であった。私は、頑として首を振りつづけた。      5  母の遺骨は、姉と相談して永尾家の墓地に納めることにした。父は、母にあれだけ手痛く裏切られながらも、母の戸籍も抜かず、失踪宣告《しつそうせんこく》の請求もしなかった。そのため母は戸籍上は永尾家の人間だったのである。  姉と私と、母の実家の者だけが集まって、寂しい葬儀を行なった。母の一片の骨を墓の屍櫃《かろうと》の中に納めたとき、「母は、新吉に殺された」という事実が実感された。  母を葬ってN市の家へ帰って来ると、また新吉が上がりこんでいた。私はおもわず逆上した。 「なぜ上げたんだ」私は激しく妻を詰《なじ》ると、新吉の襟首をつかんで引きずり出した。 「出て行け!」私は外へ突き出した。新吉は、私に力まかせに突かれて、門の前にたたらを踏んで倒れた。石にでもつまずいたのか、大仰な悲鳴を上げて倒れた彼は、痛い、痛いよ、おまえは、親を殺す気かと叫んだ。  その言葉が戸を閉じかけていた私の耳に引っかかった。 「いまの言葉は、どういう意味なんだ?」  私は、倒れている彼のそばに行った。 「気になるのか?」  新吉は、曖昧《あいまい》なうす笑いを口辺に浮べた。仕掛けた網に、予想どおりに獲物がひっかかったのを見届ける漁師のように、彼は自分がさりげなく投げた言葉の効果を計算している様子であった。 「いま言ったことをもう一度言ってみろ」 「あんた、おれがなぜお清さんの遺骨をおまえさんの所にもって来たかわかるかね?」  新吉は含んだ言い方をした。 「いったい何を言いたいのだ。はっきり言ってみろ」 「本来なら、お清さんの遺骨は永尾家を継いだあんたの姉さんの所へ持って行くべきだ。それなのにおれは、あんたの所へ届けた」 「遺骨をもってきたのを口実に、この家に侵りこむつもりだったんだろう」 「それだったら、本家へ届けても同じさ。お清さんとおれは、ずいぶん長いつき合いだったよ、おまえさんが生れる前からのね」  新吉は、私の反応を愉《たの》しむようにいったん言葉を切って、私の顔を覗《のぞ》いた。私は、全身の血液がすっと冷えていくのを感じた。そんな馬鹿な! そんなことがあり得ようはずがない。だが母と新吉の関係が、駆落ちする以前からあったことは、ほぼ推察できる。それがどれほど以前からのものかわからないが、私が生れた後にはじまったという証拠はどこにもないのだ。  もし彼らの不倫が、私の誕生前に存在したとすれば、新吉は私の父親になり得る。少なくとも可能性はある。  この人間の屑《くず》が、天性の寄生虫が、私の父親だというのか。そういえば、私は幼いころから周囲の者にちっとも父親に似ていないと言われたものだ。新吉にも相似したところはないが、特に父の特徴を伝える点もなかった。似ていない親子はいくらでもいるので、これまでべつに気にしていなかったが、いま新吉から意味深長な暗示をうけてみると、疑惑をそそられてくる。  新吉は、私の動揺を感じ取ると、 「私は、こんなことを言うつもりはなかった。親らしいことはなに一つしていない私が、いまさらおめおめと父親面をするつもりはないよ。でもなあ、年を取ると、心細くなってなあ、血のつながっている者の所へ行きたくなるんだよ。やっぱり血は水よりも濃いということが、この年になってから、ようやくわかるようになったよ」 「でたらめを言うな」 「でたらめじゃないさ。もっともいまになってはなにも証拠はないがね、おたがいの体の中を流れている同じ血の呼び合う声を信用する以外にないな」  新吉は殊勝げに言ったが、その声の底には勝ち誇ったひびきが感じられた。  私は激しく動揺した。いまになって急に父親と名乗られたところで、親子の愛情が湧《わ》くものではない。むしろわだかまっていた憎悪を攪拌《かくはん》された。  だが、彼の投げた一言が、私を大きな猜疑《さいぎ》の渦に巻きこんだことも事実であった。これまで不動というより、生れながらにして定まっていた血液の基礎が、ぐらぐらと揺れた。  根も葉もない嘘《うそ》として信じまいとしても、すでにその拒否の姿勢が、激しい動揺をしめすものであった。それに根も葉もないことではなかった。可能性は十分にあるのである。  血液検査という手が残されていたが、それによって父子関係が科学的に証明されるのが恐かった。 「絶対に迷惑はかけない。片隅でいいから置いておくれよ」  新吉は、私の動揺につけ入った。  ついに新吉は、私の家に侵りこんだ。当初は言葉どおり神妙にしていた。私は彼を無視していた。私はべつに彼にいてもいいとはっきり承諾したわけではなかった。新吉のほうで勝手に侵りこみ、居ついた感じである。  私としては、たとえわずかでも自分の父親になり得る可能性をもつ男が頼ってきたのを追い返して、どこかで野たれ死にでもされるのがいやだったので、黙認したつもりである。  父親の可能性に対して黙認したわけで、彼を父親として認めたわけではない。いや、私は人間として認めていなかった。野良犬か猫が迷いこんで来たぐらいにしか扱わなかった。食事も別にした。風呂《ふろ》も最後に使わせた。彼の使った後の風呂など、屎尿《しによう》よりも不潔な気がした。  それが私の、母を奪った彼に対する復讐《ふくしゆう》でもあった。新吉も当初の間は、私のそんな胸の内を悟って、努めて家の隅に身を潜め、私の目に触れないようにしていた。私のいちばんの気がかりは、彼の飼い猫のような仮面の下の好色の本性であった。年齢は、六十前後のはずだが、まだ決して枯れてはいない。  私は、いつも家にいるわけにはいかない。出張もある。私の不在中、妻に手を出さないともかぎらない。私は、彼が初めて訪れて来たとき妻の身体に這《は》わせた好色の視線を決して忘れていなかった。  少しでもおかしな素振りを見せたら、即刻|叩《たた》き出すつもりであった。新吉もようやくありついた最後の居所をふいにするような真似《まね》は、自戒しているようであった。  私の家は、N市の西南の郊外にある。あまり開けていない地域で、近くには雑木林が多い。ガメツイ不動産屋がまだ入りこんでいないので、自然のままの起伏に富んだ土地は、緑に被《おお》われていた。  父が買ってくれた二百坪の土地も、雑木林の一角で、建坪三十坪ほどの家は、自然林をなるべく損なわないようにして建てた。当然さまざまな昆虫が、棲《す》みついていた。いまは貴重品になった自然の恵みをできるだけ取り入れるように設計された家だが、季節になると、虫が家の中に侵入して来るのには、閉口した。  だが、うっかり殺虫剤を撒布《さんぷ》して、樹林を傷つけたくなかったし、また自然の生物相をこわしたくもなかった。虫の侵入は、網戸などで防げる。秋になれば庭先ですだいて、なかなかの風情《ふぜい》がある。  新吉は、居所を見つけていくらか余裕が出たのか、庭に出てまた蟻を見物するようになった。そのうちに妻からコーヒーやマヨネーズの空びんをもらって、あちこちから蟻を採集してくるようになった。  蟻の採集に夢中になって、一晩か二晩帰らないことすらあった。  新吉が居ついてから、時折家の中に蟻が這っているのを見かけるようになった。最初は新吉の採集してきた蟻かとおもい厳しく注意すると、彼は、採集すると同時にベンジンで殺してしまうから自分の蟻ではないと主張した。  おそらく庭の蟻が、家の中へまぎれこんだのだろう。だが蟻の姿は、陽気が暖かくなるにつれて増える一方であった。  ある日曜日の午後、妻が台所で悲鳴をあげたので、飛んで行ってみると、夕食用に買っておいた牛肉に、びっしりとゴマをまぶしたように蟻がたかっていた。そのうちに甘いものだけでなく、辛いものにまで群れるようになった。  私は、新吉が蟻を招き寄せているようにおもえてならなかった。彼が来る前にも、蟻はいた。だがこのように大挙して屋内に侵入し、食物を食い荒したことはなかった。  新吉は、ざっと見ただけでも、十数種の蟻が庭にいると言った。まず砂糖と牛肉にたかっていたのが、トビイロケアリとアメイロアリ、次にクロヤマアリ、クロオオアリ、サムライアリ、クロナガアリ、トビイロシリアゲアリ等々と、彼は即座に分類していったが、私には、いずれも同じ様に見えた。  梅雨もようのむし暑い夜、風呂に入っていた妻が突如、殺されるような悲鳴をあげた。居間でテレビを観ていた私が、愕然《がくぜん》として駆けつけると、妻が洗い場のタイルの上で身をよじっている。 「いったいどうしたんだ?」  私がうろたえてたずねると、彼女は苦痛に顔をゆがめて、「痛い、痛いのよ」と泣き叫んだ。どこが痛いのかと聞いても、悲鳴をあげるばかりである。 「オオハリアリに刺されたらしいな」  いつの間にか新吉が私の背後に来ていた。妻は苦痛で、私はうろたえていて、女が入浴中の風呂場に侵入して来た新吉を咎《とが》めるのを忘れていた。 「おい、なんとかしてやってくれ」  私は、蟻に関してはオーソリティの彼に頼んだ。 「こんな所に噛《か》みついている」  新吉は、つと手を伸ばすと、妻の内股《うちまた》の辺から黒いごま粒のようなものをつまみ取った。簡単に指先で潰《つぶ》すと、掌に乗せて私の前に差し出した。  体重四、五ミリのいかにも獰猛《どうもう》な体形をした蟻の死骸《しがい》がそこにあった。 「こいつは、オオハリアリといって、凄《すご》い毒針をもっているんです。これに刺されると、蜂に刺されたように痛い。もう殺してしまったから傷口にはメンタムでも塗っておけばなおりますよ」  新吉は、このごろ卑屈にへり下った言葉遣いをするようになった。それがいかにも飼い犬が飼い主に阿《おもね》って尾を振っている感じである。 「それにしても、いったいどこから風呂場へ侵《はい》りこんだんだろうな?」  蟻の侵入口を探すように風呂場の奥へ向けた新吉の視線に、私は我に返った。彼は、蟻を口実に、目の端で妻の裸身を盗んでいたのだ。 「だれがここへ入って来いといった。出て行け!」私はどなった。  妻も、ようやく苦痛に忘れていた羞恥《しゆうち》をよみがえらせた。だがそのときは、新吉によってその豊かで瑞々《みずみず》しい裸身を存分に盗み見られた後であった。  この事件があってから数日後、私の会社で悪質ないたずらが起きた。若い女子社員が、トイレットの中で意識を失ったのである。守衛が彼女を医務室へ運んだ後、トイレットの中を検《しら》べてみると、便器の前に、巨大な蜘蛛《くも》がうずくまっていた。  腹部に金色の毒々しい縞《しま》が描かれ、いかにもまがまがしい形だった。守衛は意識は失わなかったが、一瞬息がつまるほどにギョッとなった。だが、よく観ると、どうも様子がおかしい。恐る恐る目を近づけてみると、なんとゴムで造ったオモチャだった。精巧に造られていて、本物以上に迫力がある。 「きっとタチの悪い痴漢が、尻《しり》をまくったOLがトイレットから飛び出す図を狙《ねら》って仕掛けたんだろうな」 「中で失神して当てがはずれたか」 「その代りに守衛が得をした」 「いったい犯人は、だれなんだ?」  若い社員たちは、一様にニヤニヤしながら臆測《おくそく》をたくましくした。彼らの会話が、私の耳に入った。私は、最初なにげなく聞きすごしたが、それのもつ重大な示唆に、私自身が蜘蛛を見たようにギョッとなった。 「妻を刺したオオハリアリは、新吉が彼女の裸身を盗むために仕掛けたのではないだろうか?」  これまで、蟻が風呂場に侵入して来たことはない。それが一匹だけ、妻の入浴時を狙うようにして侵って来たのも、おかしい。彼は、何が妻を刺したか、見届ける前に「オオハリアリ」と言った。いかに蟻に詳しいとは言え、蟻の姿も見ないうちに推定できないはずだ。だいいち、�加害者�は蟻かどうかもわからないのである。  私の臆測は速やかに発達した。 「そうだ。新吉は、蜘蛛を女便所に仕掛けた痴漢のように、妻の裸身を想像の中で盗むだけに満足できなくなって、蟻を風呂場の中に忍ばせておいたのだ」  ——やはりあいつは殊勝な仮面の下で、妻に対して好色の牙《きば》を磨いていた——  私の胸の中が沸騰した。新吉に向ける憎悪には父や祖母から相続した遺伝的な素地がある。それが、いま私の暖かい巣に侵入して来て、蟻の巣のシジミ蝶のように、私の妻に貪欲《どんよく》な食客の牙を剥《む》きだしたのだ。  それは、父から母を奪ったのと、まったく同じ反復ではないか。しかも証拠がないのをよいことに、私の実父を名乗り、私の家の中に寄生の根を深く下ろそうとしている。  新吉を赦《ゆる》してはならないとおもった。彼は三代にわたって、永尾家に取り憑《つ》き、その家の礎《いしずえ》を突き崩すまでに蝕《むしば》もうとしている。父祖の代から堆積《たいせき》された憎悪に、私自身の巣を荒された怒りが加わって、沸々とたぎった。  私の憎悪の沸騰を知らぬげに、新吉は私の家にますます居心地よさそうに納まってきた。 殊勝な仮面の下で、彼は次第に生来の寄生の触手を伸ばしていた。それが私にはよくわかった。  新吉は、妻になにかを頼むときに、卑屈なくらいに「すみません」を繰り返す。だがその後できまって、「奥さん、頼みついでに、もう一つお願いがあるのですが」と増長してくる。一つの増長が許されると、たちまちその上にあぐらをかいて、さらに大きな増長をする。ちょうど電車やバスのわずかな空席に尻を割りこませて、次第に身体をねじこんで来るずうずうしい乗客に似ていた。そのへんの呼吸は、見事というほかはなかった。  私は、彼によって私の家がじりじりと蚕食《さんしよく》されている気配を悟った。放っておくと、母のように、骨までしゃぶられてしまうだろう。だが、追い出すべき口実が見つからなかった。  新吉は、すでに簡単に追い出せないほど、深く寄生の根を広げていたのである。それに、ただ追い出しただけでは、私の煮えたぎった憎しみは、癒《いや》されなかった。      6  私に、東南アジアのI国への長期出張命令が下ったのは、そんな時期であった。私は、I国が導入したオートメーション関係機器の現場技術指導のために出張することになったのである。期間はどのくらいにわたるか予測がつかない。I国は気候、風土、食物等すべての生活環境が異なる上に、住宅事情が悪いので、みな単身赴任することになっている。私だけ、妻を伴って行くわけにはいかない。  いつ帰れるかわからない無期限の出張の間、妻を新吉といっしょに残していけなかった。子供がこれまで妻のよいガードマンになってくれたが、私の長期の不在中、母親を守るには頼りなかった。いまでも、会社にいる間、不安でたまらないのである。妻は、新吉が居候するようになってから、私の帰宅が早くなったと単純に喜んだくらいだった。  新吉はテコでも動きそうにない。その間、妻子を里に帰すことを考えたが、彼女は長期間帰るのは、夫との仲がまずくなったように近所に釈《と》られるので、いやだと言った。  だいたい妻は、新吉に対してあまり警戒していない。私の母を盗んだ話をしてきかせても、三十以上も年齢差のある、一見いかにも老いさらばえた新吉に、危険を実感しないのである。  私は、出発前になんとかして新吉をわが家から取り除かなければならないとおもった。私は厚い憎悪の堆積の上に実った一個の着想を凝然と見つめた。 「寄生虫は、取り除く以外に、それから逃れる方法はない」  それが私の達した結論であった。  私は、準備の第一段階に入った。まず、死体を隠す場所である。いろいろ物色した結果、家の床下に隠すのが最も安全であると悟った。床下の周囲には、頑丈な金網が張られてあって、野良犬も侵入できない。通行人にハプニングで発見される危険もない。床下深く埋めれば、臭いも出ないだろう。  土中における死体変化は、空気中の八倍もかかるということだが、建てたばかりのこの家の耐用年数は長い。いくらでも時間をかけて腐ってもらおう。一生、他人の食客で通した新吉には、今度は自分の肉を食いながら、ゆっくりと骨になってもらうのだ。  土中に骨が残っても、決して他人に見つけられることはない。なにしろその上に私が住んでいるのだから、この家の寿命がきたら、また新たな家を建て替えればよい。  次に、新吉の姿が突然消えて、近所から不審をもたれないかというおそれだが、それはまず問題ないと考えてよいだろう。この付近は、家が疎《まば》らで、近所づき合いはほとんどない。新吉が私の家に居候していることを知っている人はいないだろう。たとえいたとしても、もともとフラリと現われた風来坊である。来たとき同様、またどこかへ行ってしまったと言い抜けられる。  最大の障害《ネツク》は妻であった。彼女に殺人の現場は見せられない。妻は、私を愛しているから、たとえ私を犯人と知っても、告発するおそれはあるまいが、死体をわが家の床下に埋めることには、猛烈に反対するにちがいない。だがそこ以上に安全な隠し場所はないのだ。  私は、口実をもうけて妻子を里へ数日帰した。あとには、私と新吉しかいない。すべての準備は調《ととの》った。  新吉は、まことに他愛なく死んでくれた。彼のこれまでの執拗《しつよう》な寄生ぶりからは、信じられないくらいにあっけなく、この世から去ってくれた。  私は、ほとんど夜を徹して新吉の居室にあたえていた四畳半の床下の地面を深く掘り下げた。この部屋ならほとんど使わないし、新吉を埋めた後は、物置にしてしまうつもりであった。  穴を掘り終り、いよいよ死体を運び入れる段階になって、私は、その首筋に蠢《うごめ》く黒い点を見つけた。「何か?」とのばしかけた手を、私は途中で停《と》めた。その黒点が、妻を刺したオオハリアリであるのに気がついたからである。新吉の死体の首に蠢くオオハリアリは、不吉ななにかを暗示しているようで無気味であった。  私は、その暗示をはらいのけるようなつもりで、オオハリアリもろともに死体を埋めた。すべてがかたづいたとき、夜は明けていた。  里から帰って来た妻は、留守の間に新吉がまた旅に出たと言うと、べつになんの疑問ももたなかった。旅立ち前の家族水いらずの生活は、蜜《みつ》のようであった。新吉がいなくなって私は、いかに私の家庭が彼の存在によって乱され、荒され、蝕まれていたかを、再確認した。 「やっぱり、水入らずってすてき」  妻も、それを実感した様子である。もうあの呪《のろ》われた食客に邪魔されるおそれは、永久にないのだ。私はべつの地平が目の前に開いたような新鮮な感動をおぼえた。  もしかすると、自分の実の父親を殺したかもしれないという不安は、みじんもなかった。      7  私は、間もなく出張した。仕事は充実していて張り合いがあった。I国では私をその部門に関する最高権威として遇してくれた。事実、私の専門に関して、私以上の権威者は、そこにいなかった。  仕事は順調に進んだ。だがなにぶんにも、仕事の量と技術指導者の数が極端にアンバランスなので、当分帰れる見込みはなかった。  生活環境や、食物のちがいにも馴《な》れてきた。だが、妻に対する飢餓感は癒しようがなかった。子供にも会いたかった。私には、日本からいっしょに来た仲間たちのように金を出して現地の女性を抱く気になれない。  たとえそのことによって性的飢餓は一時的に欺けても、私の妻に向ける飢餓は、そんなものではなかった。呼吸が鼻や口からだけでなく、全身の皮膚からも行なわれるように、妻から切り放された私の飢えは�全的�なものだった。  出張中、休暇が出て一時帰国が許される。だがそれも二カ月も先であった。こんな私の飢餓を、空腹|欺瞞《ぎまん》用の一、二枚のビスケットのように、わずかながら救ってくれるのが、彼女からの便りであった。  妻は、週二回ぐらいの割で手紙をくれた。それでも私には足りないくらいである。I国の奥地にいる私の許《もと》に彼女の便りが届くのは、航空便でも一週間以上かかる。  私は、その手紙を何度も貪《むさぼ》り読み、�一週遅れ�の妻の体臭をそこから嗅《か》ぎ取った。出張後、二カ月ほどしたとき、妻からの�定期便�が少し途絶えて心配していると、三通ほどの便りがまとめて配達された。発信日付を見ると、定期便としての規則的な間隔が置いてある。  私は、郵便局の怠慢を怒りながらも、久しぶりに嗅ぐ妻の�三倍の体臭�に胸をわくわくさせて、一通ずつ封を切った。そして最後に開いた手紙にそのこと[#「そのこと」に傍点]は書いてあった。  ——お元気ですか。ああ逢《あ》いたい逢いたい逢いたい。好き好き好き。いつも同じことばかり書いてごめんなさい。でも本当なんです。あなたから離れていると、いつもあなたのことしか考えられないのです。あなたのおそばにいて、あなたの愛に浸っていたときは、べつになんともおもわなかったことが、なんと貴重な、それを得るためには、どんな犠牲も忍べるような、一つ一つ宝石よりも高価な贅沢《ぜいたく》であったことでしょう。私は、その宝石のように貴重なあなたの愛を、洪水のように濫費《らんぴ》していたのです。ああ、あの贅沢の一粒でも、いま私にあたえられたら。  私、いま砂漠で渇《かつ》えた旅人のように、あなたに渇えています。早く帰って来て。そして、渇ききった私の心身のすべてをよみがえらせて。啓一もあなたのお帰りを指折り数えるようにして待ちこがれています。——  啓一というのが子供の名前だが、子供のことを除けば、まるで結婚前の恋人のような文章である。  ここまでは、だいたいいつもの定期便と同じ調子であった。同じでも、それが私の飢えのなによりの救いになる。私を愕然《がくぜん》とさせたことは、その後に書いてあった。  ——ところで、あなたにお報《しら》せしなければならないことがありますの。このごろオオハリアリがよく家の中に入って来るので、蟻退治の専門家に頼んで、庭や家の中を調べてもらいました。私がいつかお風呂のなかで刺された毒の針をもっている蟻です。あのときの重苦しく痺《しび》れるような痛みは、よくおぼえています。あなたのためだけの私の肌を、あんな凶暴な蟻に痛められてはいけませんものね。  蟻退治の専門家は、オオハリアリの巣をあちこち探した結果、家の中に大きなシロアリの巣を見つけたのです。それは家の土台や材木を食べ荒すヤマトシロアリやイエシロアリという種族なんですって。オオハリアリはシロアリの天敵で、これが出没するのは、シロアリのいる証拠だと言ってました。  このまま放っておくと、せっかくの新しい家がめちゃめちゃに食い荒されてしまうから、いまのうちに退治したほうがいいと言われたので、早速、頼みました。家屋全体をよく調べてもらうと、裏の四畳半、新吉さんのいたお部屋の床下の土台と根太《ねだ》が特に大きな被害を受けていました。シロアリは通風の悪い湿気の多い場所を好むそうなので、お風呂場に近く、裏手のあのお部屋の下に巣喰《すく》ったのでしょう。特に、イエシロアリは、被害をあたえた所よりはるかに隔たった地中深く巣をつくるとかで、四畳半のお部屋の床下を掘り返して徹底的に駆除してもらうことにしました。この手紙がお手許に届くころは、駆除作業がすっかり終っているでしょう。お帰りまでに、害虫どもを追いはらって、もっともっと住みよくしておきますわ。だから、早く帰って来て……——  手紙はまだつづいていたが、私は読みつづけることができなくなっていた。まさかこんなことから私の完全犯罪が露《あら》われようとは、夢にもおもわなかった。いまごろは、いやすでに、新吉の死体が掘り出されて、大騒ぎをしているであろう。  私は、その光景をまざまざと瞼《まぶた》に描くことができる。まだ完全に白骨化しない、膿《う》み崩れた腐肉をまといつかせた凄惨《せいさん》な死体。そこに粉をふりかけたように群れているシロアリ。もしかすると、死体そのものがシロアリの巣になっているかもしれない。野良犬に金網を破られないように、床下を板で囲ったことも、その繁殖をうながしたのだろう。  私は、新吉の死体を埋めるとき、その首筋に一匹のオオハリアリがしがみついていたのをおもいだした。私は、妻が風呂場でオオハリアリに刺されたとき、それを新吉が仕掛けたとおもった。  オオハリアリは、シロアリに惹《ひ》かれてやって来たのだ。そしてそのシロアリは、新吉が招《よ》び寄せたものにちがいない。いや新吉が、シロアリそのものだったのだ。永尾家に三代にわたって寄生し、ついに私の家庭を芯《しん》から食い滅ぼした恐るべきシロアリだったのである。  私の耳にひたひたと足音が迫った。それが私には、私を追って来た司直の足音のように聞えた。 [#改ページ]   怒りの樹精      1 「お母さん、樹《き》がないよ」  今年小学校へ上がった長女の冬子《ふゆこ》が、泣きだしそうな顔をして母親に訴えてきた。 「樹がないって、なんの樹が」  キチンで朝食の支度をしていた母親の紀美子《きみこ》は咄嗟《とつさ》に子供の言葉に対応できない。 「いつものカラスの樹がないよ」  冬子の声は、すでに半ベソをかいている。 「なにを寝ぼけてんのよ」  種村《たねむら》紀美子は軽くいなした。 「本当だよ。ここへ来て見てよ。本当に樹がなくなっているんだから」 「お母さんいま忙しいのよ。顔を洗ってよく見なおしなさい」  紀美子は取り合わなかった。長女が言っている「カラスの樹」とはこの近所の名物の老木で樹齢《じゆれい》三百年と言われるケヤキの大木である。樹高約八十メートルで樹冠《じゆかん》にカラスの巣があるところから「カラスの樹」と呼ばれている。太い幹を中心に、主幹に劣らない大枝を分け、細枝、枝葉を周囲に広げてかなり遠方からもよい目印となっている。そんな樹が一夜の中《うち》になくなるはずがないという先入観がある。 「樹がなくなっちゃったよう」  母親に信じてもらえない子供は、とうとう泣きだしてしまった。 「しようがない子ねえ。早く支度しないと学校遅れるわよ」  紀美子はエプロンで手を拭《ふ》きながらベランダに面した子供部屋へやって来た。カラスの樹の見える窓際へ来た紀美子は、あっと声を呑《の》んで立ちすくんだ。  窓からの視野の主要部分に、いつも雄々しく聳《そび》え立っていたケヤキの老木が忽然《こつぜん》と姿を消して、間の抜けた空間が頼りなく広がっている。 「あら、ほんとに樹が消えちゃってる。どうしたんでしょう」  紀美子は束《つか》の間《ま》目の前の光景が信じられなかった。 「ねえ、お母さんどうしたのよ。樹がなくなっちゃったよう」  冬子は、大粒の涙を流して泣き始めた。騒ぎに二歳の妹の繭子《まゆこ》までが起き出してきた。数日前から不吉な前兆がないわけではなかった。カラスの樹のある方角から地鳴りのような機械のうなりが絶えず聞こえていた。  だが、東京の街のあちこちで四六時中行なわれているなにかの工事の一つであろうとおもっていた。騒音に不感症化していて、さして気にも留めていなかったのである。それがまさか樹齢三百年の古木を伐《き》る作業の一環とは夢にもおもわなかった。  昨日の夕方までは窓からの視野の中にその見馴《みな》れた姿を聳え立たせていたから、昨夜の中《うち》に伐り倒されてしまったのであろう。きっと土地の利用のために邪魔になった地主が伐り倒させたものであろうが、それにしてもなんたる無思慮なことをと、紀美子はその樹に対してなんの権利もないのに猛烈に腹が立ってきた。  特に冬子は「カラスの樹」が大好きで、毎朝その樹を窓の外に確かめてから学校へ行った。旅行へ出かけるときも樹に、行ってまいりますと言い、帰って来ると、ただいまと言った。  樹は四季折々また時間帯によって異なる姿を見せた。春から初夏にかけて若葉と共に、葉のつけ根に淡黄緑色の小さな花を開いた。夏は巨大な緑の傘を広げて、傘の下だけでなくその周縁に爽《さわ》やかな緑の風を送った。秋は重なり合った葉が見事に色づいて日ごと微妙な色彩の饗宴《きようえん》を繰り広げた。そして冬はその艶《つや》やかな樹葉のコスチュームを振るい落として、雄々しい裸形《らぎよう》を寒風の中に立ち向かわせた。  その姿は、ときに妖艶《ようえん》であり、艶麗《えんれい》であり、豊満であり、またあるときは孤独で毅然《きぜん》としていた。  四季折々に異なるのは姿形だけではない。季節の回転と歩調を合わせて、樹はさまざまな気配やにおいを発した。新緑から花期にかけての噎《む》せるような香り、それは、春と共によみがえった充実した生命力そのものの香りであった。  無量の樹葉は繁り合い重なり合い、風に揺れて複雑な音を発する。微風の中の優しげな葉ずれは、疲れた心身を柔らかく手当てする子守歌となった。  また嵐の夜は樹精が激怒したかのような凄《すさ》まじい咆哮《ほうこう》を発する。嵐に抗して立つ地上の巨神、雷鳴の夜は一瞬の稲光りの中に浮かび上がる姿が残像となって視膜《しまく》に刻みつけられ、前の残像が消えないうちに新たな雷光による別の残像が叩《たた》きつけられてくる。一瞬のフラッシュライトによって固定された像形が、フラッシュを連続させることによってダイナミックな躍動を見せる。樹が雷鳴と雷光に抗して身ぶるいしているのである。それは樹の武者震いと言ってよかった。  そんな樹のプライバシーと言ってよい姿が目近に見られるのも、その近くに住む者の特権であった。  冬のある朝、寝起きの目に樹は夥《おびただ》しい白い花を咲かせて、まだ残っていた眠けを吹き飛ばした。夜の中に降った東京には珍しい大雪が、樹葉を失った裸樹に豪勢な純白のコスチュームをかけたのである。  その樹を棲《す》み家《か》としている鳥も多彩である。樹冠に君臨しているカラスをはじめ、かつて百種はいたと言われる皇居の野鳥が移り住んで来ているほか、数でものを言わせるスズメや迷いバトまでが棲みついている。目には見えないが多様の昆虫もそこを棲み家としているはずである。  それら多種多様の生物にそれぞれのテリトリーに応じた棲み家と食料を提供しながら、しかもなお、その巨樹は余裕たっぷりに周辺にさまざまな恩恵を振り撒《ま》いていた。自然の乏しい都会の一角にあって貴重な、そして健やかな自然の生き残りであった。  その樹が一夜にして姿を消してしまったのである。冬子は泣きつづけている。妹も釣られて泣きだした。 「とにかく支度をしなさい。学校に遅れるわよ」  紀美子は泣いている我が子を叱咤《しつた》した。 「私、学校へ行きたくない」 「なに言ってんの。そんなことで学校を休む子がありますか」 「お母さんは私の大切な樹が伐られちゃったのに、そんなことだって言うの」  冬子は、ますます激しく泣きだした。 「お母さんが悪かったわ。それじゃあ学校へ行く途中、樹の所へ行ってみましょう。お母さんも一緒に行ってあげるから、とにかく支度をしなさい」  とりあえず冬子をなだめた。      2  そのケヤキの古木があった地点はS区|元八千代《もとやちよ》町の一角である。地名に「元」の字がつく所は土地柄が古い。低地の高架を走る小田急線に沿って対立する形の台地であり、V国大使館や昔ながらの古い屋敷の間に割り込んで来た瀟洒《しようしや》なマンションや銀行の寮などが点在する静かな住宅地である。ケヤキの樹は元八千代町の象徴のような樹であった。樹齢三百年の樹が生き残ってきた事実も、この土地の古い歴史を物語る。雨もよいの夕方などには古い屋敷の石垣の間などから大蝦蟇《おおがま》が這《は》い出して来て、ぎょっとさせられる。  紀美子はランドセルを背負った冬子と二歳の繭子を連れてケヤキの樹が立っていた地点へ行った。そこはこの近所で�お化け屋敷�と呼ばれている元貴族の廃邸である。近所でありながら、袋小路のどんづまりにあるので、日ごろ立ち寄ることはない。  行って驚いたことに、お化け屋敷がきれいに取り壊され、その跡地が運動場のように整地されていた。ケヤキだけでなく、邸の庭には低木、雑草が手入れも施されないまま蔓延《はびこ》っていたが、それがきれいさっぱり取り払われて黒土が平坦に均《な》らされている。それが住宅街の中に突如ポッカリと開いた不自然な空間を広げている。空地の隅にプレハブの作業事務所があり、整地作業に携わっている数人の工事人の姿が見えた。  空地の中央にゴロンと一本の丸木が転がされていた。まだ伐ったばかりとみえて、その伐り口から強烈な木の香りが上っている。それが昨日まで高く聳えて周囲を睥睨《へいげい》していたケヤキの樹と悟るまでに少々時間がかかった。大枝や細枝や樹葉を取りはらわれて一本の丸木とされたケヤキの樹木は、日ごろの偉容とは似ても似つかぬ貧弱な裸木になっていた。 「これがあのカラスの樹、嘘《うそ》だあ」  冬子は悲鳴のように言って、容易に信じようとしなかった。 「でも、この丸木にちがいないわよ。ほら、あそこに根が残っているじゃない」  紀美子はケヤキの樹が立っていた地点に残っている生《な》ま生《な》ましい切り株を指さした。  切り株の断面は、大地に転がされている丸木の根本の伐り口にまさに符合している。伐り口が傷つけられた子供の心のように痛々しくて紀美子は直視できない。 「だって、カラスの巣がないじゃない」  冬子はまだ認めたがらない。 「カラスはとっくに、どこかへ引っ越しちゃったわよ」  樹冠部も枝葉を取り除かれ、先端を切り落とされているので丸木の断面になっている。断面が根のほうよりやや細いので、それが樹冠のほうだと推測できる程度である。  紀美子に説明されて、ようやく丸木をケヤキの樹の残骸《ざんがい》と認めた冬子は声をあげて泣き始めた。空地の整地作業に携わっていた工事人たちが何事かと集まって来た。 「お嬢ちゃん、どうしたの」  責任者らしい年輩の工事人が問いかけた。日に灼《や》けていかつい顔をしていたが、目つきが優しい。  紀美子が事情を説明すると、工事人が目をしばたたいて、 「そうだったの。私らも、できることならこんな古い樹は伐りたくなかったんだけど、地主の命令でね。ここにマンションを建てるために仕方がなかったんだよ。そうだ、ちょっと待ってな。形見分けをしてあげよう」  工事人は言うと、若い工事人にプレハブハウスの中から電動|鋸《のこぎり》をもって来させて彼らの目の前でケヤキの樹を一枚�輪切り�にしてくれた。 「お宅はどこですか、運んで行ってあげましょう」  工事人は親切に言ってくれた。輪切りとは言え直径一メートル以上あるケヤキの断端はみっしりと重く、とても紀美子の手に負える代物ではない。  若い工事人が肩にかつぎ上げて種村家まで運んで来てくれた。ケヤキの樹の形見は種村家の玄関に飾られて香ばしい木の香りで屋内を満たした。  その日学校から帰って来た冬子は形見の前に果物と水を供えた。供物のかたわらに封筒が添えてあった。冬子の目を盗んで紀美子がその封筒をそっと覗《のぞ》いて見ると、次のような手紙が入れてあった。  ここではいちばん大きくてせいたかのっぽの木でした。でもマンションが立つことになってたおされてしまいました。とてもかなしいです。それにわたしが大すきだった木です。でもわたしのうちに、うすくきられている木がうちにあります。だからいいです。だいじな木へ  その手紙を読んで、紀美子は涙ぐんだ。彼女は三百年の古木を伐《き》り倒した跡に建設したマンションにきっと、ろくなことはないだろうとおもった。  ケヤキの樹が伐り倒されて数日後には、切り株を掘りおこされてマンション建設の基礎工事が始まった。  冬子は毎夜寝る前にケヤキの樹が見えた窓辺に佇《たたず》んで、なにかつぶやいた。紀美子が隣りの部屋でそっと耳を澄ましていると、 「カラス、カラス、カラスの木、カラスと一緒にどこへ行った。わたしが眠っている間に帰って来てね」  とつぶやいている。寝ている間に樹が再び戻って来るように幼い心に祈っているのである。彼女が生まれてからいつも視野にあった樹がなくなった事実が、いまだに信じられないのである。  翌朝、窓辺に立って樹が戻っていないのを確かめると、 「カラスと一緒に迷子になっちゃったのかなあ」と肩を落とす。その姿が悲しみを幼い心に精いっぱい耐えているようで紀美子は胸が痛くなった。  このころからケヤキ伐採後のさまざまな�後遺症�が発生するようになった。ケヤキの樹は種村家の南面に聳《そび》えていたが、南風の日などには砂埃《すなぼこり》が吹き込んで来て家の中がザラザラになった。また夜更けて静かになると南方の低地を走る電車の轟音《ごうおん》が枕《まくら》に響くほど伝わってきて眠りを妨げられた。  失われてみて初めてあのケヤキの樹が、いかに埃や騒音を遮ってくれたかわかったのである。だが、後遺症はそんなところで留《とど》まっていなかった。  近隣の犬や猫がカラスに襲われ始めた。カラスの狙《ねら》いは犬猫の餌《えさ》や彼らの尾の毛である。彼らは複数で共同作戦を張り、陽動部隊が前面へ出て敵の注意を引きつけている間に、攻撃隊が背後から餌を奪い、尾の毛を引き抜く。毛は巣造り用に使うのである。  動物の毛だけではなく、グラスウール、衣類の繊維、綿、ロープ、針金などまで手当たり次第に盗む。  まだ人身の被害は出ていないが髪の長い女の子や女性が歩いていると、後方から急降下して来て頭をかすめんばかりにして飛び去り、ぎょっとさせる。  ケヤキの棲《す》み家《か》を失ったカラスが凶暴になったようである。以前は決してそんなことはしなかった。朝方ケヤキの樹冠で騒がしく鳴いて朝寝の夢を妨げたが、それも比較的規則正しく、よい目覚ましの代わりとなった。  それが塒《ねぐら》を失ってから、のべつ幕なしに鳴きたてて、赤ん坊などは怯《おび》えて眠らなくなった。だがそのカラスの鳴き声が次第に種村家に近づき凝縮されてくるようであった。そのうちにベランダに干していた洗濯物が頻々《ひんぴん》と盗まれるようになった。  初めは痴漢の仕業かとおもっていたが、ベランダの床や手摺《てす》りに残っていたカラスのふんや羽から、彼らの仕業であることがわかった。 「あなた、やだわあ。ケヤキに棲んでいたカラスがどうやら家の近くに巣を造ったらしいのよ」  紀美子は夫に訴えた。 「まあカラスも長年棲みなれた棲み家を失って途方に暮れているんだよ。当分大目に見てやるんだね。彼らにも生きる権利はあるんだから」  日中は会社に行っていてカラス被害の実害にほとんどあっていない夫は寛大であった。だがカラスは増長する一方である。洗濯物だけに留まらず、テレビアンテナを折り曲げ、ゴミバケツを引っくり返して中身を漁《あさ》り、布団を鋭い嘴《くちばし》で啄《ついば》み、綿を引っ張り出した。  そのころから冬子が夜、うなされるようになった。いったん寝ついてから一時間ぐらいすると、突然泣きだすのである。  目を見開き、歯を食い縛り、身体をこわばらせて泣く。どんな夢を見たのか、「お母さん恐いよ、たすけて、たすけて」と手をさしのばして泣く。  紀美子が胸に抱きしめ「ほら、お母さんはここにいますよ」と優しく耳へささやいても、いっこうに泣き止《や》まない。目は見開いていても、なにも見ていないのである。瞳《ひとみ》が放散していて、その表情は我が子であって我が子ではなかった。 「たすけて」の次はどういう意味か「ちょうだい」と訴える。冷たい濡《ぬ》れタオルで顔を拭《ぬぐ》ってやると、次第に覚醒《かくせい》に向かってくる。  完全に醒《さ》めてからどんな夢を見たのかと尋ねると、自分がいつの間にか樹《き》になっていて伐《き》られそうになったのだという。 「ちょうだい」はどういう意味かと問うと、「止めてちょうだい」と頼んでいたのだと言った。物心ついてから朝夕親しんでいたケヤキを伐られて冬子は心を深く傷つけられていた。  医者に相談すると、「夜驚症《やきようしよう》」という症状で、ヒステリー性不安の一種であり、敏感な子に発症しやすいということである。冬子は生まれたときからデリケートで情緒過多的なところがある。  たとえば旅行に出かける。出発日からすでに帰る日のことを考えて悲しがる。テレビや映画が悲しい場面にさしかかる前に、それを予想して涙を流すというタイプなのである。 「ケヤキを伐られたのが心理的原因となっているとおもわれるので、時間が経過すれば自然に軽快するでしょう。対症療法としては眠る前に刺戟《しげき》を避け、早く眠ることです。テレビなども刺戟的な内容のものは見せないでください。必要があれば少し環境を変えてみるのもよいでしょう」  とアドバイスしてくれた。 「ケヤキの樹は伐られてしまったけど、その分身が冬子ちゃんの家に来ているでしょう。あの分身が冬子ちゃんと繭子ちゃんを守ってくれているので、なんにも恐がることはないのよ」  と言い聞かせてやると、次第に症状も発しなくなった。      3  ケヤキの樹が伐り倒されてから一年後に跡地にスマートな六階建てのマンションが完成して建物以上に洒落《しやれ》た住人が入居して来た。一見|煉瓦《れんが》を積み重ねたような化粧煉瓦の外装が、古い土地柄に合った重厚な安定感を建物に添える。  各戸の画一性を避けるために外壁が複雑に屈曲し入り組んで、窓やベランダなどが同一平面上に並ばないように工夫されている。そのために生ずる複雑なデザインを、渋い化粧煉瓦の色調が上品に抑え込んでいる。  玄関ドアはオープンカード式で玄関ホールには金ピカのクリスタルグラスのシャンデリアが吊《つ》り下がっている。中へ入って確かめたわけではないが、床は御影石《みかげいし》らしい。きっと各戸の内部にはさらに結構が尽くされているのであろうが、外からはうかがい知れない。  ケヤキの樹が立っていたあたりは舗装した駐車場となっていて、国産のデラックスタイプや外車が駐《と》めてある。時折その車を颯爽《さつそう》と駆って住人が外出する。そんな車のリアシートには手入れのいきとどいたマルチーズやプードルが我が物顔に乗っている。彼らはもちろん、その住居や駐車場が樹齢三百年のケヤキを犠牲にして造られたことを知らないが、たとえ知ったとしても、一片の感傷もないであろう。  マンション入居者は、かつてその地にあった古木の恩恵のかけらも被ったわけではない。彼らがこの豪華な住居に入るために支払った巨額の代価の中には、犠牲になったものの価値も含まれていると信じている。  新しいマンションは「元八千代パレス」と名づけられた。入居者は会社重役、医者、弁護士、芸能人、デザイナーなどということである。元八千代パレスが完成してからこの地域に一つの異変が生じた。それはおおむね男のティーンエイジャーを主体とした一団が元八千代パレスの周辺に絶えず出没するようになったことである。彼らは表参道や六本木辺を徘徊《はいかい》している若者のようにアップツーデートのファッションに身を固めている。実際に表参道や六本木から移動して来た若者たちも少なくないようである。  彼らは終日、元八千代パレスの前に屯《たむろ》して入居者が出入りする都度|騒《ざわ》めき、目当ての入居者を見つけると女の子顔負けの黄色い声を張り上げる。  騒動の原因は元八千代パレスに入居して来た粉川祥子《こなかわしようこ》である。粉川は昨年度のレコード大賞最優秀新人賞を射止めたアイドル歌手である。彼女がこのマンションに入居したので、そのファンや親衛隊が大挙して押しかけて来たと言うわけである。  おかげで静かな住宅街はファッショナブルな若者たちの撒《ま》き散らす陽気な騒めきによって、一日中落ち着かない雰囲気になった。  元八千代パレスが完成して半年ほど経った。ケヤキが伐り倒されてから一年半経過した。種村家の玄関に飾られた形見から発する木の香りもだいぶ薄くなった。  冬子もこのごろは窓辺に佇《たたず》んで樹が帰って来るようにと�呪文《じゆもん》�を唱えなくなった。だが毎朝形見に供物をあげることは欠かさない。時間の経過と共に薄皮を剥《は》ぐように癒《なお》ったとは言うものの、子供の心に抉《えぐ》られた傷は深いのである。  一年半があっという間に経った感じである。樹があったときは、季節の移り変わりを樹が教えてくれた。それが樹が失われて季節の手がかりがなくなってしまった。時間は季節感のないままのっぺらぼうに流れ去って行った。種村家の窓からは空の眺めは大きくなったものの、それは失ったものの大きさを示していた。  樹が伐られたのが十月末であったから、四月終わりに近い日の夜である。世間は間近に迫ったゴールデンウィークに浮かれ立っているようである。  その騒めきをおいても、いつになく周辺|界隈《かいわい》が異常に騒がしかった。救急車の警笛とパトカーのサイレンが間断なく、異変が進行している気配である。 「いやあねえ、なにか事件でもあったのかしら」  紀美子は眉《まゆ》をひそめた。間もなく夫が帰宅して来た。 「おい、大変だよ」  種村は、出迎えた紀美子に玄関の三和土《たたき》に立ったまま言った。 「どうしたの」 「粉川祥子が自殺したんだ」 「まさか」  紀美子が凝然となった。 「本当だよ。帰り道に通って来たんだが、マンションの屋上から飛び下りたんだそうだ。ファンが現場に大勢詰めかけて大変な騒ぎだよ」  先刻からの異常な気配はそれだったのか。 「どうして粉川祥子が飛び下り自殺なんかしたの」 「そんなこと知らないよ。テレビか新聞で報道するだろう」 「飛び下りて本当に死んじゃったの」 「飛び下りた直後は虫の息があったらしいけど、救急車が来る前に死んだということだ。まだこれからなのに、勿体《もつたい》ないなあ」  夫は溜息《ためいき》をついた。 「私、ちょっと行ってみようかしら」 「いまはやめといたほうがいい。ファンでごったがえしていて近づけないよ。みんな殺気立っているから、下手するとソバ杖《づえ》を食うよ」  夫に諌止《かんし》されておもいとどまった。そのとき、ふとおもい当たることがあった。 「祟《たた》りだわ」 「いま、なんと言ったんだい」  夫が紀美子のつぶやきを聞き咎《とが》めた。 「樹の祟りよ。うちに形見があるでしょ。一昨年の秋、あそこのマンションの土地にあったケヤキを伐ったでしょう。あの樹の祟りよ」 「はは、そんな、まさか」 「私、あの樹が伐られたとき、なにかよくないことがおこりそうな気がしたのよ」 「しかし粉川祥子はケヤキとなんの関係もないだろう」 「だから犠牲になったのよ。これからもきっと、よくないことが起きるとおもうわ」 「すると、そんな縁起でもない樹の形見を家においていることになるじゃないか」 「そうじゃないのよ。それまであの樹が護《まも》り神になってその地に取りついていたり、外から侵《はい》り込もうとする悪魔や妖怪《ようかい》を押え込んでいたのよ。その護り神が失われたものだから悪魔が暴れ始めたのよ」 「粉川祥子が悪魔の犠牲になったというのか」 「犠牲第一号よ」 「あまり無責任な予言をしてはいけない」  夫にたしなめられても、紀美子は樹の守護を取り除いた後、ひたひたと迫り来る凶悪な気配を全身に感じ取っていた。      4  事件が発生したのは昨夜七時ごろである。ちょうど帰って来た入居者が車から下りたとき、なにか重い物体が地上に落ちたような気配を聞きつけた。気配の方角を見ると、外壁を照らす投光器の反映の中に一人の女性が俯《うつぶ》せに倒れていた。びっくりして駆けつけると黒い油のような液体が地上に広がった。——ということである。  粉川の居室から発見された遺書には、 「ご迷惑をかけてすみません。いろいろと考えましたが、死を選ぶ以外に道がないことがわかりました。どうか私のわがままを許してください」とだけしたためられてあった。  翌日の報道は粉川祥子自殺のニュースで埋め立てられた。特にテレビのニュースショーやスペシャル番組は粉川一色に塗られた。  自殺の原因は「失恋」とされて、相手として、ある中年の性格俳優の名前Tが挙げられていた。Tは「粉川さんとは親しくしていたが、妹のようにおもっていただけで恋愛感情はなかった。自殺したと聞いて唖然《あぜん》としている」とコメントした。  つづいてテレビは自殺現場の様子を撮《うつ》し出していた。  自殺者が十九歳のアイドル歌手だったので、ファンもおおむね同年輩の少年が多かった。彼らは一様に涙の流れるにまかせて彼女の死を悼んでいた。その悲嘆に打ちひしがれた様は、あたかも骨肉を失ったかのようである。  中には明らかに中年と見える男が、粉川が墜落した地点に打ち伏して声をあげて慟哭《どうこく》している。粉川の死に際して可哀想《かわいそう》とはおもうものの、べつにファンでもない者の目には、その様は奇異に映った。それを奇異と見るのはファン心理を知らない者であろう。彼らはいま骨肉を失った以上の悲しみに心身を引き裂かれているのである。  紀美子はテレビを見た後、現場へ行ってみた。昨夜の今日なので、まだ現場は夥《おびただ》しい関係者やファンでごった返している。報道関係者も多数来ている。泣いている者はファンであり、それに冷酷にカメラやマイクを向けている者が報道関係者である。  多数の犠牲者を出した災害事故と異なり、自らの意志で死を選んだ人気者の取材であるので、彼らにも遠慮がない。ファンの中にはカメラを意識してオーバーな悲嘆を見せる者もある。死んだ者が役者であれば、ファンも役者であった。  自殺者が着地したとみられる駐車場の一角は夥しい花で埋められていた。花は後から後から堆《つ》まれていく。それも高価な花ばかりである。  時ならぬ花束と人の群れで埋められた駐車場に入居者の車は、閉じこめられ、いったん出た車は閉め出された。車どころか入居者の出入りすらままならない有様であった。  ファンは嘆き悲しみ、粉川祥子をようやく売り出したプロダクションとレコード会社は莫大《ばくだい》な利益を失った。結局彼女の死は、「失恋自殺」としてかたづけられた。粉川祥子が死んだ後、現場の花束は少しも減らなかった。マンション管理人が古くなった花束をどんどん捨てていたが、捨てるそばから新たな花束が補給された。  ファン心理を考慮して大目に見ていた管理人も、駐車場の交通障害になるので、遂《つい》に四日後にファンの供花を禁止したが、それでも現場に忍び込んで花を供える者が後を絶たなかった。  三日後、紀美子の予言が的中した。粉川のファンの高校生少年が、元八千代パレスの屋上から飛び下りて後追い自殺を遂げたのである。少年は屋上から粉川が着地した地点と数メートルと離れていない地上に激突して、全身打撲で死亡した。  マンションの玄関はオープンカードが必要であり、朝九時から夕方五時までは管理人がいて無関係者は出入りできないが、夜間、入居者に従《つ》いて、関係者のような顔をして入ることはできる。玄関の前で少し待っていれば、必ずだれかが出入りするから、オープンカードを所持していなくとも入り込める。  また建物裏手には外壁に取り付けられた非常階段がある。各階の出入口は内側からのみ外へ出られるようになっており、非常階段から館内へ入ることはできないが、屋上へは出られる。  管理人と入居者がその少年を見ていないので、おそらく非常階段を伝って屋上へ上ったと推測された。少年が飛び下りた跡へ、再び粉川祥子のファンが押しかけて花束を供えた。  だが悲劇はさらに悲劇を呼んだ。さらに五日後、今度はなんと三十一歳の妻子ある男が同じマンションの屋上から飛び降りた。彼は熱烈な粉川ファンであった。彼女がデビュー以来その親衛隊長を自任して彼女の行く先々まで従いてまわっていた。  地方公演へ出れば会社を休んで従いて行く。都内にいるときは一日中彼女を追いかけて、その日のスケジュールをすべて消化して、彼女が住居へ帰ったのを見届けてから自分の家へ帰るというほどの熱心な支持者であった。  そのため遂に会社を首になり、いまは失業保険で祥子の親衛隊活動をつづけていたということである。彼にとって祥子は生き甲斐《がい》そのものであった。その生き甲斐を失って生きる目的を失ったのである。  度重なる�殉死�に元八千代パレスの管理会社は衝撃をうけた。これ以上の殉死者を、少なくとも同パレスから出さないために、管理人(警備員)を増員して臨時二十四時間管理体制にした。  だが裏手の非常階段を取りはずすわけにはいかない。地上からの上り口を閉鎖すると、非常の際の役に立たない。  やむを得ず非常階段の上り口に常夜灯をつけたほか一時間ごとにパトロールすることにした。しかし自殺者が非常灯の光をものともせず、パトロールの間隙《かんげき》を衝《つ》いて来ないという保証はない。 「いくらなんでも、そんなに後追いは出ないだろう」  管理会社は、都合のいいように解釈して、不安をごまかした。      5  この時期と符節を合わせたようにカラスの跳梁《ちようりよう》が激しくなった。これまで犬猫を襲ったり、洗濯物を咥《くわ》えたり、ゴミ箱を漁《あさ》ったりする程度で留《とど》まっていたのが、人間を襲うようになったのである。  特に髪の長い少女やよぼよぼの老人と見ると、後ろから急降下して来て鋭い嘴《くちばし》で頭を突いて行く。屈強な成人男子がつき添っているときは決して襲って来ず、ひ弱な女、子供や老人がエスコートなしで歩いていると攻撃を仕掛けるのである。  カラスの抱卵から育雛《いくすう》の時期は情緒不安定となり攻撃的になる。界隈《かいわい》の住人たちはこの時期、女、子供、老人だけで外出しないように申し合わせた。  幼稚園児はもちろんであったが、小学生の登下校時にも、当番のおとなが必ずエスコートすることにしたのである。  六月十一日夜、梅雨もよいの天候がつづいて、空気は湿っていた。  午前零時をまわって、当夜宿直にあたった守衛の増山良一《ますやまりよういち》と田川良造《たがわりようぞう》の両名は大あくびをした。自殺したアイドル歌手の後追い自殺を防ぐために急遽《きゆうきよ》増員された臨時警備員であるが、二人目の殉死者が出た後は、平穏無事に一カ月ほど経過している。世間も、ようやくアイドル歌手自殺騒動を忘れかけているようである。  生活のサイクルの早い現代では、どんなに人気者でも、死ねば速やかに忘れられていく。追悼されることはあっても、もはや�現役�としての人気は維持できない。  臨時二十四時間管理体制はつづけているが、後追い自殺はもうあるまいというたるみが生じていた。実際来るかどうかもわからない自殺者に備えて、四六時中緊張していることはできない。  パレスの居住者もおおかた帰って来たようである。 「ああ、なんだか眠くなったな」  増山良一はあくびの後、目をこすった。 「マスさん少し寝《やす》めよ。どうせなにもありはしない。二人起きていることはないさ」  田川良造が言った。守衛には交代で仮眠が許されている。しかしそれは午前二時から午前六時の間に限られている。 「それではそうさせてもらおうかな。なんだかひどく疲れたんだよ」  増山はあくびをしながら二段ベッドの下へ転がり込んだ。増山が仮眠を取り始めてから一時間後、田川は懐中電灯を取って立ち上がった。一応ザッとパトロールをしようとおもったのである。一時間に一度のはずのパトロールが三時間くらい間隔を空けてしまった。  どうせ何事もありはしない、三時間に一度で十分さと自分に言いわけしながら、田川は駐車場へ入って行った。病院長のベンツ、弁護士のクラウン、デザイナーのムスタング、俳優のポルシェ・カレラ、主だった住人の車はおおむね帰って来ている。中古のカローラなどは恥ずかしくて入りこめないような駐車場である。  駐車場の出入口には一応鉄の門扉《ゲート》があるが、鍵《かぎ》がかけてあるわけではない。車の出入りの都度、利用者が手で開閉する。門扉の脇《わき》に通用門があってこれも通行自由である。駐《と》めてある車の豪勢な割に出入りが寛大であるが、これは管理が二十四時間制になっていなかったせいである。  マンション建設当時は、駐車場が自殺に利用されるだろうとは夢にも予想しなかった。ようやく入居者の間からも駐車場の出入りを厳しくすべきだという声が出てきたが、そのためには二十四時間制管理を確立して、ゲートにモニターカメラを設置しなければならない。それには巨額の改築工事費と、管理費の増額が必要であるが、入居者の中にはいまのままでよいという者もあって、臨時の警備で事件後をしのいでいた。  駐車場の中は照明灯の反映で薄明るい。たっぷり取ったスペースはまだ十分余裕があり、それが仇《あだ》となって自殺者に場所を提供してしまった。  車の主がにわかに駐車場の出入りを厳しくするように言いだしたのは、自殺者が自分の愛車の上に墜落してくる場合を考えたからである。  田川は形ばかりに懐中電灯をもって駐車場をパトロールした。自殺者のおかげで余計な仕事が増えてしまったのを怨《うら》んでいる。本人が自分の都合と意志で死ぬのは止《や》むを得ない場合があるだろう。若い身空なりに苦労はあるものだ。  だが、それに同情したファンが後追い自殺するに至っては、理解の域を越えている。ファンとはまさに�不安�であり、なにをするかわからない無気味さをいっぱいに孕《はら》んでいる存在である。  ポルシェ・カレラのボディを回った所で、田川はぎょっとなって立ちすくんだ。その小ぶりで精悍《せいかん》な車体のかげに隠れていた形で、一体の人形《ひとがた》をした影が長々と地上に横たわっていた。  田川の目にそれは不吉な影に見えた。最初の驚愕《きようがく》から意志的に立ち直った田川は、職業的な義務感からライトを向けた。駐車場の固い舗装面に横たわっている人体が、墜落ショックでひどく損傷していることは、乏しいライトの光量による観察でもわかった。身体と地上の接触面から黒い油のような粘液が滲《にじ》み出ている。 「ま、ま、またやりやがった」  田川の声の震えが全身に伝播《でんぱ》した。      6  元八千代パレスの夜間警備員から、また飛び下り自殺者が出たという通報に接した代々木署は、初めから先入観の着色をうけていた。臨場した係官も初めから事故死として扱っていた。  死者は所持していた名刺その他の物品からS区桜丘町四の一×ハイム南台1005号室、会社員|新里秀利《にいざとひでとし》、二十四歳と判明した。新里は墜落ショックによる全身打撲と内臓破裂で、即死に近い状態で死んだものとみられた。  新里は粉川祥子のデビュー当時からの熱烈なファンであったこともわかった。 「二十四歳といえば一人前のおとなじゃないか。アイドル歌手の後追い自殺をする年じゃあるまい」  臨場した係官も、うんざりした表情である。 「ファン心理というものは、年齢には関係なさそうだよ。いい年をしたオジンやオバンが中年スターの外国公演に大旅行団を編成して繰り込むというじゃないか」 「あの連中もスターが死ねば後追い自殺をするかね。実はうちのばあさん、杉良大郎《すぎりようたろう》のファンなんだよ」  別の係官が心配そうな表情になった。 「やりかねないんじゃないか。ゼンさんも気をつけたほうがいいよ」  同僚が脅かすように言ったものだから、ゼンさんと呼ばれた係官は、ますます不安の色を濃くした。  警備員が午後十時ごろパトロールしたときは駐車場に異常は認められなかったというから、自殺者はそれ以後、午前一時ごろまでの間に駐車場から建物裏手の非常階段を経由して屋上から飛び下りたものと推測された。死体はまだ新しく、血液の凝固状態などからみても警備員が発見する直前に飛び下りた模様である。  一応屋上も観察したが、遺留品などはなかった。 「ちょっと気になるな」  先刻同僚から「ゼンさん」と呼ばれた係官が首を傾げた。代々木署の刑事一課の菅原善作《すがわらぜんさく》である。 「なにが気になるんだね」  相棒の芹沢《せりざわ》が彼の独り言のようなつぶやきを聞き咎《とが》めた。 「靴なんだよ」 「靴が、どうかしたのかい」  芹沢が死体の履いている靴に目を向けた。死者は伊達者《だてしや》であったらしく、パリのデザイナーによるグレイのスーツと裾《すそ》が少し広がり気味のスラックスを着け、イタリア製のカーフの短靴を履いている。  だが高級品ということがわかるだけで、特に異常はないようである。 「靴が、きれいすぎるとおもわないか」 「我々のドタ靴とはちがうなあ」 「いやそういうことじゃなくて、泥が全然ついていないよ」 「泥ねえ」  芹沢が改めて視線を向けたが、特に反応は現われない。 「連日の梅雨で道路がぬかっている。あんたも私も靴が泥だらけだよ。ところがホトケの靴にはまったく泥がついていない」 「なるほど、きれいなもんだな。しかし、車で来れば泥はつかないんじゃないか。駐車場には泥はないんだから」 「このマンションの前まで車で来たとしても、多少は道路を歩かなければならない。我々の靴もそこで泥がついたんだ。泥を避けるように歩いたとしても、底が汚れるのを防げない。ところがホトケの靴の底は舐《な》めたようにきれいだよ」 「言われてみると、上履きのようにきれいだね」 「上履きでも底はこんなにきれいじゃないだろう」 「すると、どういうことになるのかな」  芹沢の目の底が光ってきた。 「ホトケは歩かずに現場へやってきたことになる」 「つまり、そのときすでにホトケになっていたというのかい」 「いや傷口から出血しているから生きてはいたんだろう。眠らされていたか、酔って正体がなかったか、とにかく自分が歩けなくなっているところを屋上にかつぎ上げて……」  二人の刑事はその示唆する先の禍々《まがまが》しい影を見つめた。  ファンの後追い自殺とみられていた事件が、巧妙に仕組まれた殺人としての構図を取りかけている。  アイドル歌手が自殺を遂げた現場で二人のファンが後追い心中を果たした。その後にファンを一人自殺の形で殺しても、先を行った三人の自殺の余響をうけて�第四の自殺�(第三の後追い)とみられて疑われない。  連続犯罪の中に無関係の犯罪をまぎれ込ませるという手口はあるが、連続自殺の中に殺人を混入させるという手には初めて見《まみ》えた。  改めて死者の靴が丹念に検《しら》べられた。その結果、泥だけでなく、ふだん使用されていない非常階段に積もっている埃《ほこり》もまったく付着していないことが判明した。靴はよく磨かれており、外出先から帰って手入れされたままの状態である。また不鮮明ながら非常階段から複数の革靴とみられる靴跡が採取された。  事件は自殺を偽装した殺人の疑いありとして死体を司法解剖に付する一方、死者の生前の人間関係や現場周辺の目撃者を探して聞き込みの網が広げられた。  死者は、港区新橋三丁目にあるメトロオートパーツという自動車部品会社のセールスマンであった。勤務ぶりはルーズであったが、セールスの腕がいいので、けっこう大きな顔をしていたということである。  同社に入社したのは、五年前である。経営者が同郷であったところから、地元の高校を卒業した後、伝《つて》を手繰《たぐ》ってやって来た。  特定の女性関係はない模様だが、本人が自閉的で会社の同僚とあまり交際がないので、確かなところはわからない。  行きつけのバー、飲み屋もあるにはあったが、特に深間《ふかま》の女性はなさそうである。郷里にはまだ両親や兄が健在である。  連絡をうけて郷里から駆けつけて来た肉親の立会いの許《もと》にその住居の遺品を検べたが、特定の関係にある女性の存在を示すような資料は発見されなかった。  だが彼の遺品の中から約三百万円の現金が発見されるにおよんで俄然《がぜん》、捜査員は緊張した。 「いまどき三百万円程度の金は珍しくないんじゃないのか。本人は腕のいいセールスマンだったし、世話をする家族のない独り身だったんだ。入社後五年のうちにそれくらいため込んだかもしれない」  という意見が出たが、新里が見栄《みえ》っ張《ぱ》りの性格で、いつも身分不相応の生活をしているうちに、粉川祥子に入れ揚げて、そのファン活動で金に詰まっていたという聞き込みがそれを打ち消した。  最近はサラ金の金にも手をつけて、首でもくくりかねない窮境《きゆうきよう》に追い込まれていたのが、死の一カ月前からにわかに金まわりがよくなった。サラ金も返し、派手に遊んでいたということである。  それは恐喝を予想させる状況である。新里はだれかの弱みを握って恐喝していた。遺《のこ》されていた三百万円は恐喝した金品の残りであろう。そして恐喝の被害者がエスカレートする恐喝に耐えかねて恐喝者を取り除いた。よくある構図である。  ——三百万円の出所に犯人がいる——  だが三百万の現金が残されているだけで、その出所を示唆するような資料は一切なかった。死者の靴から発した捜査は、ここまで来て頓挫《とんざ》した。  なお解剖によって、直接の死因は墜落ショックによる全身打撲、血液中のアルコール濃度は一ミリリットルに一‐一・五ミリグラムである。これはほろ酔いかげんである。  だが血液中および胃内容から催眠剤が証明された。胃内容の催眠剤は半融解であり、バルビツール系の催眠剤と判定された。同系の催眠剤はアルコールとよく融和し、一緒に飲んだとき、その効果が五十パーセント相乗されるという。  新里秀利は当夜、催眠剤とアルコールによって、昏睡状態になっていたことが推測された。ここにおいて殺人事件と認定されて、所轄署に捜査本部が開設されたのである。      7  その日はカラスが異常に騒がしかった。鳴き方が慌ただしく余裕がない。 「なにか不吉なことが起きる前兆みたいで、やあねえ」  紀美子が眉《まゆ》を曇らせた。 「きっと梅雨が長くつづいたので餌《えさ》がないんだよ」  種村が同情するように言った。  カラスは四月末ごろから産卵を開始し、抱卵し、五月下旬から六月上旬に雛《ひな》がかえり、六月末に巣立って行く。彼らが最も凶暴になるのは五月末の孵化《ふか》期である。 「この間、お向かいの奥さんが、カラスがガマを攫《さら》うのを見たと言っていたわ」 「あんな大きなものをさらえるのかい」 「子猫や子犬だってさらうそうよ」 「よほど腹を空《す》かしてるんだな」 「冬子、大丈夫かしら」 「まさか。冬子がカラスにさらわれるはずがないだろう」 「さらわれるまではいかなくても、嘴《くちばし》で突っつかれないかしら。あの子、このごろ髪が長くなったから」 「当番が付いているんだろう」 「最近カラスが少しおとなしくなったので、エスコートしなくなったのよ」 「冬子もこのごろたくましくなったから、カラスなんかにやられはしないだろう」  そんな会話を交わしている間も、ますますカラスの鳴き声がかまびすしくなった。今日は日曜日で冬子はクラスの友達の誕生パーティに招《よ》ばれている。 「そろそろパーティがお開きの時間だわ。繭子を連れて迎えに行ってみようかしら」  紀美子は居ても立ってもいられなくなったように立ち上がった。 「おまえも心配性だな」  種村は苦笑したが、妻の不安が伝染してきた。妻に言われて、カラスの鳴き声がいつもとちがうような気がした。余裕がないだけでなく、凶暴性があるようである。  以前に鳥の研究家から、カラスは美食家で人間が食べて美味《うま》いものはみんな食べるという話を聞いたことがある。その節に研究家はカラスが美食家であると同時になかなかの面食《めんく》いで、髪の長い美しい少女ばかりを狙《ねら》うと言っていた。  老人を襲うことはあっても、専ら男のほうで、皺《しわ》くちゃのお婆《ばあ》さんには洟《はな》も引っかけないそうである。  親馬鹿の欲目を割り引いても、冬子は目鼻立ちの整ったノーブルな面立《おもだ》ちをしている。色も抜けるように白い。  髪が長くなって、それを風に吹きなびかせたり、頬《ほお》にほつれさせたりしているときは、小学生とはおもえないようなおとなびた艶《つや》やかさがあった。  それがカラスを惹《ひ》きつけないだろうか。 「ぼくも一緒に行こう。ちょうど散歩しようかとおもっていたんだ」  胸に萌《きざ》した不安を妻に悟られないようにして、種村はさりげなく立ち上がった。  彼らが出かけようとしたとき、玄関のほうに騒がしい気配が生じた。何事かとおもって出てみると、顔見知りの近所の主婦が緊迫した表情で立っていた。 「あ、奥さん大変よ。いまお宅の冬子ちゃんが帰りにカラスに頭を突かれて救急車で病院へ運ばれて行ったわよ」  彼女に知らされて夫婦は愕然《がくぜん》とした。たったいまカラスの鳴き声に不安を抱いて、迎えに行こうとしていた矢先である。不吉な予感が的中してしまった。  取るものも取りあえず、救急車に運ばれたという病院へ駆けつけてみると、手当てがすんだところであった。幸いに傷は大したことはなく、頭皮が破れて少し出血しただけであった。 「大したことでなくてよかった」  種村はホッとして、 「これで冬子の美人であることが、カラスによって実証されたようなものだ」  と言うと、 「それなんのことなの」  と紀美子が聞き咎《とが》めた。カラスの面食い説を改めて説明してやると、 「なにを呑気《のんき》なことを言ってんのよ。もしそうならまた襲って来るかもしれないじゃないの。今度、目でも突っつかれたら、どうするつもりなの」  と顔色を改めた。 「本当だ、大変だ」  種村もカラスの再襲撃をおもって青くなった。そのとき襲われたのは、冬子一人ではなかった。警察でも事態を重視した。これまでカラスの被害はあったが、人間が襲われて、怪我《けが》をしたのは初めてである。  警察では猟友会《りようゆうかい》にカラスの駆除を依頼した。狩猟においては、「鳥獣保護および狩猟に関する法律」によって猟期や一日の捕獲数が、各|獲物毎《ゲームごと》に厳しく制限されているが、カラスに関してはそのような制限は一切ない。いかに彼らが「鳥類のゴキブリ」として嫌われているかの証左である。  実際カラスの加える害は、弱いものいじめ(人間を含む)、殺戮《さつりく》、環境汚染、農水産物加害、騒音など数え上げればきりがない。一番《ひとつがい》のカラスを退治することにより、少なくとも二十か所の野鳥の巣を守れると言われる。人間で言うなら、殺人、強盗、暴行、窃盗、傷害、集団暴力など、およそ悪いことならなんでもござれの悪党である。  だが嫌われ者だけあって、生命力はしぶとく狡猾《こうかつ》この上ない。銃を構えている気配を逸速《いちはや》く悟って射程に入って来ない。射程外の安全圏に身をおいて人を馬鹿にしたようにカアと鳴く。  ようやく一羽や二羽を射ち落としたところで彼らの凄《すさ》まじい繁殖力の前では九牛ならぬ「九烏《きゆうう》の一毛」である。  カラスの研究家の山本映之輔《やまもとえいのすけ》氏によれば、カラス駆除は四月の営巣期に入る以前、大集団で過ごす時期に組織的に行なうのが最も効果的であるそうである。繁殖期になると、番《つがい》に別れて巣造りをするので、駆除の能率が悪くなる。  だがこの時期に人間のカラス被害が次々に発生している以上、そんなことを言っていられない。まず彼らの巣を発見して、巣ごと徹底的に駆除しようということになった。  以前カラスの樹《き》と呼ばれていたケヤキに集中していた彼らの巣が、ケヤキの根伐《こんばつ》と共に分散してしまった。これらの巣を鳴き声や気配を頼りに、一つずつ探り出し、明け方に急襲した。  雛が巣立ってしまえば巣は放棄されてしまう。その直前に斬《き》り込みをかけられて、彼らは大混乱に陥った。  だが巣が分散しているために、戦果がはかばかしくない。寝込みを襲われて空へ逃れたカラスは、悠々と上空を舞いながら、決して銃の射程に入って来ない。猟友会のメンバーたちは愛銃を撫《ぶ》しながら歯ぎしりをした。  ハンターたちはせめてもの腹いせに、巣の中に残されていたカラスの雛や卵を殺したり壊したりした。卵は青緑色の地に灰褐色の斑点《はんてん》がついている。毎日一個ずつ産み、一羽平均四、五個産む。先に産まれる順に卵が大きく、模様と色が濃い。そのまま抱卵し、大体二十日で孵化する。  見た目には殊勝な愛らしい形をした、精々長さ約五センチ、幅約三センチの卵であるが、孵化すれば人畜に仇《あだ》なすカラスとなる卵であるからハンターたちは巣を探し出しては、片端からつぶしてまわった。さすがにその卵を食べてみようというハンターはいなかった。  カラスの巣は林、街路樹、公園、岩棚、家の屋根|庇《ひさし》の下、ビルの屋上、鉄塔、藪《やぶ》の中などに多く造られるが、ときにはバックネットに営巣《えいそう》したという例もある。  枯れ枝や針金、ヒモなどを使って大きな皿座を造り、その中に動物の毛や植物の穂、布片、スポンジ、グラスウールなど柔らかい物質を敷いて産座とする。  猟友会のメンバーが種村家のあるマンションの屋上に目をつけた。どうもそこにもカラスの巣があるらしい。危険な気配を悟ったのか、番らしい親ガラスが二羽、マンションの上空を旋回しながら離れようとしない。  管理人の許可を得て屋上へ上ったメンバーは、予想した如く給水塔の脚部に巣を見つけた。早速巣の撤去作業に取りかかったハンターは、まず憎しみをこめて巣の中にあった四個の卵を叩《たた》きつぶした。上空で親ガラスが抗議するように鳴いたが、どうすることもできない。射程に入れば手練の銃の一発で�撃墜�されてしまうだろう。  巣からさまざまな物質が出てきた。ゴルフボール、靴の片一方、かつら、ハンケチ、紙、靴下、餌食《えじき》にされたらしい動物の骨片などである。ハンターが半ば呆《あき》れながら最後に皿座を取り除こうとしたとき、チャリンと音がしてコンクリートの屋上に落ちた物があった。  ハンターはなにかとおもって指先につまみ上げて首を傾げた。 「なにがあったんだい」  仲間のハンターが覗《のぞ》き込んだ。 「ネロ、S区桜丘町四ー一×ハイム南台1001号室|大杉《おおすぎ》方、なんだこりゃあ」  腕環《うでわ》のような革バンドの先にぶら下がったメタル板にそんな文字が書き込まれてある。 「どれどれ、これは犬か猫の首環じゃないかな」  仲間が言った。 「そう言われれば、そんな太さだよ」  彼はうなずいた。 「しかし犬か猫の首環だとすれば、どうしてそんなものがカラスの巣の中にあるんだ」  今度は革バンドの正体を推測したハンターが、首を傾げた。 「カラスがさらって来たんだろう」 「すると、カラスが誘拐してきた犬か猫を食っちゃって、首環だけが残ったってわけか」  ハンターはびっくりした。 「空のギャングだからな。この骨が首環の主かもしれない」 「むごいことだな」  彼らは自分自身が趣味のために鳥獣を殺戮《さつりく》しているむごさを忘れて眉《まゆ》をひそめた。 「この飼い主は、さぞ行方を探しているだろうな」  ハンターたちは、カラスの巣から発見されたペットの首環を飼い主に返してやることにした。首環の主はわずかな骨片になっていたが、せめてペットを偲《しの》ぶ形見となるだろうとおもったのである。  だが、飼い主を名札に記入された住所へ訪ねて行くと、その家の住人らしい派手な造作《ぞうさく》の主婦が出て来て、 「いえ知りません。私たちには心当たりはありません」  と顔色を変えて言った。 「しかし、お宅の住所が書いてあるんですよ」  ハンターは言った。 「知りません。なにかのまちがいですわ」  主婦は言い張った。 「お宅にはネロというペットはいませんでしたか」 「そんな猫はいません。失礼します」  主婦はハンターの鼻先でドアを閉じた。  取りつくしまがなかった。 「なんだ、せっかく届けてやったのに。木で鼻をくくったような挨拶《あいさつ》じゃないか」  ハンターは鼻白んだ。 「しかしおかしいな。こちらは犬とも猫とも言ってないのに、そんな猫はいないと言ったぞ」 「本当だ。彼女、やっぱり飼い主だったんだ」 「でも、どうして嘘《うそ》をついたんだろうね」 「ネロの飼い主であることを知られたくない事情があったんだろう」 「なぜネロの飼い主であることを知られたくないんだね」 「さあ、そいつはわからんね。世の中にはいろいろな人間がいるものだよ」  ハンターの中の一人が興味を持続した。彼は同じマンションの住人に聞き込みをして、大杉家でネロという白猫を飼っており、我が子同様に可愛《かわい》がっていた事実を確かめた。そのネロが二か月前ごろから行方不明になって、大杉夫婦はひどく気落ちしていたそうである。  それほど可愛がっていた愛猫の形見をもっていってやったのに、大杉の細君はそんな猫はいないとニベもなく言ったのである。なぜなのか。  我が子同様に愛していたペットを失った悲嘆から立ち直るために形見まで遠ざけようとしたのか。それにしてもあの挨拶の仕方はないだろう。  ハンターは大杉の細君の態度をおもいだして改めて腹を立てた。あのとき素早く顔を引っ込めなければ鼻にドアを打ち当てられたかもしれない。「玄関ばらい」とは、まさにこのことである。  たまたまハンターは代々木署の菅原善作と仲がよかった。家も近くでよく行き来している。この話がハンターから菅原の耳に入った。 「カラスが猫をさらうのか。話には聞いていたが、実際にあるんですねえ」  初めのうちはただ儀礼的に聞いていた菅原が、「玄関ばらい」のくだりの辺から身を乗り出してきた。 「猫がいるのにいないと言ったのですな」 「心当たりはないと、はっきり言いました」 「その猫の形見を、いまでもおもちですか」 「捨てた憶《おぼ》えがないから、探せば机の引出しの隅にでも入っているでしょう」 「ぜひ見せていただきたい」  菅原の穏和な目の底に鋭い光がたまっている。      8  ハンターから提供された猫の形見を手にした菅原は、ある符合に気づいてはっとなった。S区桜丘町四ー一×ハイム南台——猫の住所は、偽装飛び下り自殺を遂げ《させられ》た新里秀利の居所と同じではないか。  これは偶然の符合か、それともなにかの必然が働いているのか。  菅原は符合の意味を考えた。偶然の場合は考える必要がない。一見偶然を装う二つの事象を必然の糸で結び、そこに犯罪の故意を探るのが刑事のおもわくというものである。  新里秀利と飼い猫ネロの居所の一致にどんな必然の糸があるか。その糸による関連性を飼い主は知られたくなかったのではないのか。  とすれば両者の関連性の中にこそ、飼い主の知られたくない秘密が潜んでいるのかもしれない。その秘密とはなにか。菅原のおもわくは次第に凝固してきた。  新里秀利が、カラスの誘拐猫の飼い主と同じ所に住んでいたところで、新里が平穏無事であればどうということはない。だが新里は殺された疑いが強いのである。新里はだれかを恐喝していた状況がある。  菅原は仮説として新里の死を大杉家に結びつけてみた。新里は大杉家の弱みを握って恐喝していた。エスカレートする恐喝に耐えかねて、大杉家が新里を取り除いた。  しかし仮にそうだとしても、大杉家はネロの形見を拒絶する必要はない。ネロの形見がカラスの巣にあったことと、新里殺しとはなんら関係がないはずであるからである。だが大杉の細君はそれを拒絶した。ということは猫の形見と新里殺しとの間になんらかの関係があるということになる。つまり猫の形見が彼らの犯行を物語ることになるのだ。  このように仮説をおし進めてくると、すとんと腑に落ちる[#「腑に落ちる」に傍点]。  菅原は仮説を実証するために飼い猫がいなくなった当時なにかの事件が発生していないか調べてみることにした。カラスの行動範囲内の事件を調べればよい。併せて大杉家の内偵をすることにした。  四月二十八日夜、つまり新里が死ぬ約四十日前、S区元八千代町十×番地先の路上で近所に住む八十歳の老人が散歩中、轢《ひ》き逃げされた。轢き逃げ捜査班が捜査中であるが、犯人はまだ検挙されていない。  一方大杉家は夫婦二人で子供はいない。夫の秀良《ひでよし》は三十四歳、銀座の老舗《しにせ》百貨店「一越《いちこし》」の外商係長である。妻の真知子《まちこ》は三十歳、元同百貨店のイメージガールであったが、八年前に大杉と結婚した。  大杉の社内での評判はよく、上司同僚からも信頼されている。将来を約束されているエリートといってよかった。彼はN社の二〇〇〇GTR車を運転していたが、最近修理に出したのか見えなくなっている。このマイカーとネロが見えなくなった時期が元八千代町の轢き逃げと時期を同じくしていた。  夫婦仲は円満で、休日にはよくネロを伴い�一家|揃《そろ》って�ドライブに行っていたということである。  これだけの資料を集めた菅原は捜査会議に提出した。 「四月二十八日、大杉夫婦はネロを連れてドライブ中、S区元八千代町の路上で轢き逃げをしたとおもわれます。その際、飼い猫をカラスにさらわれました。カラスはちょうどその時期メスが抱卵し、専らオスが餌《えさ》を運んでやるそうです。  だれも見ている者がいないとおもっていたところが、轢き逃げの現場を新里に目撃されてしまいました。彼の恐喝から逃れるために、時期を同じくして発生した粉川祥子の自殺を利用し、たまたま新里が粉川のファンであったところから同女の後追い自殺を偽装して殺害したと考えられます」  と意見を述べた。  菅原の意見と資料は、捜査本部の取り入れるところとなり、大杉夫婦にまず任意出頭を求めて取り調べることになった。      9  捜査本部に呼ばれたことで、大杉夫婦はかなりのダメージを受けていた。当初は知らぬ存ぜぬを押し通していたが、四月二十八日夜のアリバイと、ネロの形見を拒絶した理由を問いつめられて、遂《つい》に逃れられなくなった。  大杉夫婦の自供は、おおむね菅原が推測したとおりであったが、轢き逃げを偶然新里に目撃されたのではなく、彼も同乗していたということである。 「新里とは同じマンションの同じフロアであった関係から親しくつき合っておりました。調子がよくて彼がいると楽しいので、気軽に隣人として交際していたのです。  あの日、休日が重なったので三人とネロで奥多摩方面へドライブに行きました。帰りは夜になりました。少し酒が入っていました。元八千代町の現場へさしかかったとき、いきなり黒いものが車の前へ飛び出して来たように感じました。慌ててブレーキをかけたのですが、間に合いませんでした。車からおりて老人が死んでいるのを確かめて、私と妻は茫然《ぼうぜん》としました。  とにかく警察へ行こうとした私を新里がとめたのです。死んだのはどうせ先行き長くない年寄りだ。それに引きかえ、あなたはこれから花も咲けば実もなる身体だ。酒酔い運転による人身死亡事故では救いがない。あなたの将来はめちゃめちゃになるだろう。  交通刑務所行きは必至だ。出所して来ても、もう立ち直れないだろう。  こんな年寄りと人生を取りかえっこしていいのか。だれも見ていた者はいない。我々さえ口を噤《つぐ》んでいれば、あなたの仕業とはだれにもわからない。車も解体してしまえば証拠は残らない。自分は商売柄、口のかたい解体屋を知っている。そういう危ない車の解体《バラシ》を専門に請け負っている人間だから絶対に大丈夫だ。自分に任せろ。悪いようにはしないとささやいたのです。  その悪魔のささやきに耳を傾けなければ、こんな破目にならずにすんだのです。しかしそのときは突発のアクシデントで動転しており、夫婦とも正常な判断力がなかったのです。新里に任せたと言うより、彼の言うがままになっていました。  茫然自失していた妻を、そのときいきなり黒い影がかすめました。はっとしたとき彼女が抱いていたネロをさらわれていたのです。夜間、鳥目のカラスが行動するとは知りませんでした。よほど餌に飢えていたのでしょう。それともライトに引かれて来たのでしょうか。  しかしそのときは、魔物にでも襲われたのかとおもい、そのことも恐怖を駆り立て、逃げ足を速めさせたのです。妻はネロをさらわれて半狂乱になっていました。車は新里がどこかへもって行って処分してくれました。  それから間もなく新里の凄《すさ》まじい恐喝が始まりました。彼は金品だけでなく、妻の身体まで求めるようになりました。そして彼がいるかぎり、私たちの人生はないとおもいつめたのです。  粉川祥子のマンションにはデパートのおとくいがいて、何度か行ったことがあったので、勝手がわかっていました。  あとはご推測のとおりです。ビールに催眠剤を入れて飲ませ、粉川のマンションまで新里の車で運んで行き、非常階段から屋上へかつぎ上げて突き落としました。新里は粉川の後援会長を自任していて、彼の車は守衛にも覚えられていて、駐車場へ出入り自由となっていました。新里の車を駐車場に残してくればよかったのですが、帰りの足がなかったので、ついそのまま乗って帰って来てしまったために、彼の靴から足がついて[#「足がついて」に傍点]しまいました」  大杉の自供によって事件は解決した。      10  元八千代パレスの敷地に立っていたケヤキの�住人�であったカラスが、殺人事件の犯人を突きとめたという話を聞いた種村紀美子は、それをどう受けとめるべきか当惑した。ケヤキが伐《き》られなければ、粉川祥子も自殺をしなかったかもしれない。彼女が自殺をしなければファンの後追い自殺者も出ず、それを殺人の偽装に利用して完全犯罪を組み立てようなどとする者もなかったはずである。  紀美子は、ケヤキの樹が失われて、一種の生態系が乱れたのだとおもった。  三百年間、ケヤキを中心として動植物は一定の秩序を保って生きてきた。それが人間の勝手な都合によって盟主が失われ、三百年の秩序と統一が破られたのである。カラスが巣を失っただけでなく、ケヤキを中心に生きてきた夥《おびただ》しい動植物が生活の構造を根本から狂わされた。  ケヤキの護《まも》りとは生態系の中心に根を張り、近所周囲を睥睨《へいげい》して雄々しく聳《そび》え立ち、人間、動物、植物の、そしてまた風景を構成する重要な要《かなめ》として、生物相互の関係やテリトリーの社会構造を協調・調整《コーデイネイト》することであった。 (ああ、あのケヤキはもうないのだわ)  紀美子は、かつてケヤキが聳え立ち枝葉を張っていた方角に目を向けてかけ替えのないものを失った悲しみが込み上げてきた。ケヤキがあった空間には瀟洒《しようしや》な、しかしなんの面白みもないマンションが情緒も感動も誘わない形で立っている。  このごろ冬子は窓から外を見ようとしなくなった。見るとケヤキをおもいだすということではなく、窓の外に少女の情感や想像をそそるようなものがなくなったからである。  数日後、紀美子が数名の男たちの訪問を受けた。上等の服装をした折目正しい男たちである。いずれも初めて見る顔である。彼らは玄関の三和土《たたき》に飾られているケヤキの形見に視線を集めた。 「突然お邪魔いたします。私共はこういう者でございます」  グループの中のボスらしい恰幅《かつぷく》のよい男が辞を低くして差し出した名刺には、「安全建物管理会社部長」の肩書が刷ってある。  さては不動産屋が土地か建物でも売りつけに来たのかと、紀美子はドアを開けたことを後悔したが、セールスマンにしては、少し様子がちがうようである。  部長は不審顔の紀美子に、 「私共は、元八千代パレスの管理会社でございますが、お宅にパレスの敷地にあったケヤキの形見があるとうかがって参上いたしました」 「ケヤキがなにか……」 「実はマンション建設のためにケヤキを伐りましたが、ご存じのように粉川祥子さんの自殺を始めとしてよくないことが頻々《ひんぴん》とおこっております。入居者の方々からもケヤキの祟《たた》りではないかと言われております。いまにしてケヤキを伐るのではなかったと後悔しておりますが、いまさらどうなるものでもありません。  それでまことに勝手なおねがいなのですが、お宅のケヤキの形見を譲っていただき、それをお祀《まつ》りしたいとおもうのです。私共はじめ入居者一同のおねがいですが、なんとか叶《かな》えていただけませんでしょうか」  建物管理会社の部長は土下座せんばかりにして訴えた。一緒に従《つ》いて来た者たちも同様に膝《ひざ》を屈して紀美子の顔色をうかがった。 「お話はわかりました。そういうことであればお役に立ちたいとおもいます。でも一日待ってくださいな。この形見は子供が非常に大切にしておりまして毎朝お供えしているほどなのです。私の一存ではまいりませんので、子供によく言い聞かせて納得させます」 「どうか呉々《くれぐれ》もよろしくおねがいします」  男たちは何度も最敬礼をして去って行った。 (マンション建設の邪魔になるからと勝手に伐っておきながら今度は樹《き》の祟りを鎮めるために形見を祀りたいので譲ってくれなんて、ずいぶん勝手な言いぐさだわ)  紀美子はおもったが、ケヤキの形見が樹精の怒りを鎮めるために役立つならば、差し出してもよいとおもった。残る問題は子供の説得である。  その夜、紀美子は冬子に言い聞かせた。最初冬子は涙を浮かべていやがったが、 「形見がなくなっちゃうわけじゃないのよ。元の場所へ帰ってお社《やしろ》の中に祀られるのよ。ケヤキも狭苦しいうちの玄関におかれているのよりも、元の場所へ帰って祀られるほうが喜ぶとおもうわよ。冬子ちゃんも会いたくなれば、すぐそこなんだから、いつでも会いに行けるでしょ」  と説得されて、渋々承知した。      11  ケヤキの形見は、元八千代パレスの敷地の一角に新築された小社の中に�御神体�として祀られた。�御神体�安置の日には神官を呼び、ビル管理会社役員、マンション入居者、近隣の住人、粉川祥子の身内、そのファン、粉川の芸能プロダクション社員、それを報道しようとしてマスコミ関係者までが多数集まった。  形見が社へ遷座した当初は冬子は寂しがったが、間もなく立ち直ったようで紀美子はホッとした。下校する帰途、時々社へ立ち寄って来ているようである。  社が建立されてから一カ月ほど後、不連続線の通過に伴い天候が急に悪化した。強い上昇気流によって、積乱雲が発達し、いまにも雨が降って来そうな雲行きになった。  ちょうど冬子の下校時に重なったので、雨につかまらなければよいがと気をもんでいると、玄関に「ただいま」と元気のよい声がして冬子が帰って来た。彼女が帰って来るのを待っていたように大粒の雨が降りだした。  遠方の空で鳴り、つむじ風まじりの強風が雨を横なぐりに窓に叩《たた》きつけている。 「冬子ちゃん、よかったわね。外でこんな天気につかまったら歩けなくなるわよ」 「本当だあ」  冬子は窓辺に寄って外を見ていた。まだ午後三時というのに空は黒雲に閉ざされて夜のように暗くなっている。雷鳴が急速に近づいていた。暗い空が雷鳴と共に明滅する。妹の繭子が恐がって紀美子にしがみついてきた。 「お母さん!」  突然、冬子が高い声を発した。 「どうしたのよ」 「ケヤキよ、ケヤキ」  冬子の声が興奮している。 「ケヤキがどうしたのよ」 「ケヤキが立っているよ。元の場所に」 「なに言ってんのよ。夢を見るにはまだ時間が早いわよ」 「本当よ。お母さん来て、来てったら、ほらまた見えた」  冬子が地団太《じだんだ》踏んで母親を呼んだ。 「しようがない子ねえ、そんな馬鹿なことがあるはずないでしょう」  恐がる繭子を抱いて窓際に紀美子が立ったとき、一際大きな雷鳴と共に天地が明るく染め上げられた。紀美子は息をのんで立ちすくんだ。一瞬の閃光《せんこう》の中に彼女は、かつてのケヤキが以前とまったく同じ位置に同じ毅然《きぜん》たる姿勢と豊溢《ほういつ》な枝ぶりを保ってすっくと立っている姿を見たのである。  愕然《がくぜん》として見開いた目でその像形を確認しようとしたときは、一瞬の閃光は消えて天地は晦冥《かいめい》の底に沈んだ。  もう一度見ようとして窓際に佇《たたず》んでいたが、それをピークに雷鳴は遠ざかり、稲光りも衰弱してきた。いくら待ってもケヤキは二度と姿を見せなかった。冬子にも、もう見えなくなったようである。 「ねえ、お母さん見たでしょ」  冬子が同意を求めた。 「ええ、見たわ」  と答えながらも、いま見たものが信じられない。あれは一閃の雷光の中に見た幻影であったのか。しかし親子が同じ幻影を同時に見るものだろうか。  幻影にしては一瞬の残像がくっきりと網膜に刻まれている。あの樹形、枝ぶり、樹高、強風に立ち向かって毅然たる樹勢が少しもたじろがない姿は、まさに三百年の歴史に支えられた、この土地の盟主にふさわしい貫禄を備えていた。幻影と呼ぶにはあまりに生ま生ましく具象的であった。網膜に映った単なる像形としてではなく、紀美子の聴覚はその枝の風に抗する咆哮《ほうこう》を聞き、葉ずれをとらえ、嗅覚《きゆうかく》は樹身から立つかぐわしい木の香りを嗅《か》いだ。  それらは種村一家がこの地に引っ越して以来四六時中、四季を通して感覚したケヤキの気配そのものであった。あれが幻影というのか。 「マユちゃんもケヤキ見たよ」  そのとき繭子が言った。 「えっ、マユちゃんにも見えたの」  紀美子は驚いて妹のほうに目を向けた。 「マユちゃん見たよ」  妹の声音《こわね》はしっかりしていた。まちがいない。それは幻影ではなかった。失われた樹は一瞬の閃光とともに親子三人の視野の中に再生したのである。  前線が通過すると雲が切れて気温が下がった。雨上がりの爽《さわ》やかな空に午後の光が射してきた。雨に拭《ぬぐ》われてチリ一つない空間に虹が懸かった。  中途半端な虹ではない。地平から地平へとまたぐ完全な巨大アーチが、空中に残った雨の微粒子をプリズムとして、七色のスペクトルを分けている。  主虹の外側に副虹すら伴い、束《つか》の間《ま》の彩色をもって天を染め上げている。種村母子は息をつめてこの壮麗な天の配色を見上げていた。だが、その空間のどこにもケヤキは見えない。 (冬子ちゃん、きっとケヤキの精がお礼に私たちだけに昔の姿を見せてくれたのよ)  と言おうとして、紀美子はその言葉をのど元に抑えた。そんなことを言おうものなら、この情緒過剰な少女が毎日窓辺に貼《は》りつくことがわかったからである。  虹が消えつつあった。低空を小鳥がチチと鳴いて渡った。駆逐されたはずのカラスが高空をゆっくりと舞った。 [#改ページ]   人間溶解      1 「なんだろう? この臭《にお》い」  日曜日早朝のフェアウェイの上空へ、突き刺さるように白い線をひいて飛んだ打球の余韻を満足そうに確かめていたゴルファーが、ふと顔をしかめた。 「いやな臭いだな」  パートナーが、慎重に狙《ねら》いをつけていた構えを解いて、風の吹いて来る方角から顔を背けた。 「あの皮革《ひかく》工場の臭いですわ。きっと」  近所の主婦のアルバイトらしいキャディが、堤防の向うに見える工場のような建物を指さした。煙突が数本朝焼けの残る空にそびえ立っている。堤防ごしに見える建物の大きさから判断して、かなり大きな工場らしい。 「ヒカク工場?」 「革をつくる工場ですよ。靴や鞄《かばん》なんかの」 「ああ、その皮革か」  ゴルファーはやっと納得のいった顔をした。 「それにしても臭いな」 「なにかの臭いに似ているな」 「焼場の煙突が、こんな臭いを出さなかったか?」 「そう言えばそうだ。これは人間を焼く臭いだよ」  風向のかげんか、悪臭は二人の真正面からもろに吹きつけて来るようである。ここは北区と荒川区と埼玉県川口市のちょうど境界にあたる荒川放水路の河川敷に造成されたゴルフ場である。主にビジターに解放されているところから、サラリーマンや近所の住人などが気軽にプレイに来る。ただし日曜日はひどく混むのが玉にきずであった。  いまの二人もサラリーマンである。空《す》いている早朝のうちにのびのびとプレイを愉《たの》しむために北区の方から早々とマイカーで駆けつけて来たのだ。きわめて庶民的なゴルフ場であるから、キャディはほとんど付かない。  彼らが早朝からキャディにありつけたのは、むしろ幸運なケースなのであろう。  その彼らがラウンドの途中で、まともに顔を向けられない悪臭に晒《さら》された。 「こりゃたまらない」 「ゴルフどころじゃないな」  悪臭はますますひどくなってくるようである。 「私たちこの工場ができたころから住んでいるけど、こんなひどい臭いは初めてだわね」  この付近の住人らしいキャディも、顔を背けている。皮革工場の近くに長年住みつき、その臭いにはだいぶ麻痺《まひ》しているキャディが言うのだから、相当ひどい悪臭にちがいない。 「気分が悪くなった」 「もうやめだ」  とうとう二人はまだスタートしたばかりというのに、逃げ出してしまった。      2  大日皮革は、日本でトップクラスの皮革メーカーである。足立区|新田《しんでん》の、荒川と荒川放水路に挟まれた三万平方メートルの広大な工場敷地と、三千五百人の工員を擁して、その近代化された設備は、国際的な水準と言われている。  工場の立地環境は、足立区の南西の隅にあたる荒川放水路と荒川に挟まれた島のような一角で、むしろ北区側に張り出した形になっている。足立区の主部とは荒川放水路によって分離されているので、北区の領域のような感じが多いところである。  従業員は足立区よりも北区の住人のほうが圧倒的に多い。  交通機関も、京浜東北線が最も近いので、比較的遠方から通勤して来る者も、北区方面からやって来るのである。  この大日皮革の工場敷地の一隅に、プレハブ鉄骨造りの二階建|建坪《たてつぼ》約六十坪の建物がつくられたのは、いまから二年ほど前のことであった。  これが同工場の新製品試験研究所で、新製品というより未来製品の開発研究を専門に行なう、いわば同社の極秘部分《ブラツク・ボツクス》のようなところである。  この研究所の主任技師が、同社きってのエリートと目される東京T大理学部出身の秀才、八代哲也《やしろてつや》である。八代は大学を卒業すると同時に大日皮革に入社し、本社の中央研究室に一年配属されたのち、その有能を見込まれて、欧米の先進諸国に約十か月技術研究のために派遣された。  大日皮革には、八代よりも先輩の腕のいい技師がごろごろしている。その中から入社わずか一年の、まだ技師としては嘴《くちばし》の黄色い彼が特に選ばれたのであるから、これはおもいきった抜擢《ばつてき》であった。  社内には確かにあまりに早すぎる八代の登用を危ぶむ声もあった。だが技術担当の石田常務が、どうしたわけかひどく八代の人物にホレ込んで強く推《お》したので、この異例の抜擢となったわけである。 「どうか私の期待を裏切らないように、しっかり勉強して来てくれたまえ」  出発にあたって激励した石田常務に、八代は、 「誓ってご期待に添うべく粉骨砕身してまいります」  と大時代がかったせりふを大まじめで言った。事実、八代は、抜擢された嬉《うれ》しさよりも、全社の期待の重量感に耐えながら、もし重役陣の期待に添える成果をあげられない場合は、生きては帰れないような悲壮な気持をもったのである。  そして彼は、大見得を切ったとおりに、留学先で眠る間も惜しんで学んだおかげで、期待した以上の成果をあげて帰国した。特に大きな収穫は、製革の世界的権威者である西独のチンメルマン博士の知遇を得て、彼から親しく技術指導を受けたことである。  チンメルマンは、従来のなめし法を根本から否定してしまうような画期的ななめし法を発明した人物である。その技術を盗もうとして各国の技術者が彼の周囲に群れ集まって来ていたが、なかなか気難しくて、容易に弟子を取らない。  その彼が八代だけにはウマが合ったというか親しみを示して、「チンメルマンなめし法」の技術の精髄を手ずから教えてくれた。  八代は帰国すると、チンメルマン直伝の技術と新知識をもって、製革界の一大権威になった。大学を出て間もない青二才技術者は、いまや大日皮革の虎の子技師として不動の地位を築いてしまったのである。  八代を見込んだ石田常務が、彼の帰国とほとんど時を同じくして専務に昇格したことも、八代の日の出の勢いをさらに助長した。八代の進言を容《い》れて、会社が未来製品試験研究所を新設したのも、石田が強く後押しをしてくれたおかげである。  試験所ができると、今度はチンメルマンを招聘《しようへい》した。自国からめったに外へ出ないチンメルマンも、愛弟子の招待を受けて重い腰を上げた。  来日したチンメルマンを、八代は独占した。  大日皮革以外の製革業者が、すべてシャットアウトを食ったことはもちろん、大日社内においても、限られた重役を除いて、チンメルマンに接触できるのは八代だけであった。  チンメルマンの人間嫌いをいいことにして、八代は四六時中、彼のそばにへばりついて、チンメルマン・データをすべて掌握した。  こうして八代はますます自分の技術者としての力を蓄え、確固不動の地位を築いていったのである。このような八代哲也の独善的な姿勢は社内の反感をかわないはずがなかった。  特に技術者連中の反感は、憎悪そのものであり、「八代の顔を見ると、殺意を覚える」という者もあるくらいであった。  チンメルマンは約三か月滞在して帰国した。彼が帰国してから八代はチンメルマン・データを基にして、新製品「メルーサ」の開発に本格的に取りかかった。これは一種の合成皮革であるが、従来のナイロンレザーのように気温の影響をほとんど受けない。柔軟度の調節が容易にでき、耐摩耗性その他の諸特性が、ナイロンレザーより優れている。しかも製造工程が簡単で、安価である。  非常に複雑な方法で、立体構造の構成がはかられているので、天然皮革と性質感触においてほとんど差がなくなる。  もしメルーサが開発されれば、皮革業界の大きな革命になるはずである。この材料だけで大日皮革の株価は上がったほどであった。 「チンメルマン・データを八代が独占しているのは、技術研究の上から好ましくない。このような、社運をかけた開発は全社的な体制で行なうべきである」  と他の先輩や同僚技術者たちは強く八代に迫ったが、 「チンメルマン・データは私との共同研究によるものであり、まだ未整理、試験前で、とても公表できる段階にはない」  と頑として拒《は》ねつけた。これに対して、大日の首脳陣も、技術者連の主張を妥当と認めながらも、チンメルマン・データと、メルーサのノウハウを一手に掌握している八代に向かって強いことを言えなくなっていた。  八代を抜擢した石田専務自身が、八代に対してやや遠慮するようになっていたのである。もし八代が機嫌を損ねて、競合会社ヘメルーサとともに移ったら、元も子もなくなる。  虎の子として育てていたものが、いつの間にか強大な虎に成長していたのだ。大日皮革は、自分たちが育てた虎のご機嫌を取り結びながら、それが産み出す美しい皮に企業の期待をかけていた。  試験研究所のメンバーは、八代哲也を主任技師として、三名の技術者と、六名のアシスタントの計十名によって、構成されている。  三名の技術者は、いずれも会社から選ばれた若手腕ききばかりであり、社歴も彼より古い者が多い。  古木正三は東京T工大出身で三十一歳、試験所の技術者の中では最年長者である。大学院研究室に残ってじっくり研究してきただけに、理論家としては社内で彼の右に出る者がない。学究タイプで休日も研究室ヘ出て来て一人でコツコツ研究しているような男である。まだ独身で特定の女関係はない。  堀口弘は大阪T大の出身で二十九歳、在学中に発表した「人工皮革論」が、学界や業界の話題となって、大日皮革が早々と奨学金を送ってコネをつけていた天才肌の男である。独身で、女関係はかなり花やか。シャープで彫りの深いマスクには、やや虚無的な翳《かげ》があって、そんなところが若い女にたまらない魅力となっているようだった。  中脇《なかわき》優子は、試験所の文字どおり紅一点である。二十四歳、女ながら私立の理科系の名門、S大物理化学部をトップで卒業して、直ちに大日皮革に招かれた。入社は、八代より二期ほど後になる。  だいたい女が大学で専攻するものといえば、文学とか家政学と、相場がきまっている。まれにかたい学部へ紛れ込んで来る女は、女というより中性に近い感じである。  そういう中で、中脇優子はまるで来る場所をまちがえたような、いかにも明るい美貌《びぼう》と、女らしいふくよかな暖かさをもっていた。しかも成績が抜群ときているので、在学中から男子学生のアイドルのような存在になっていた。  試験所ヘ抜擢されたのも、彼女の実力のせいもあるが、八代が強く彼女をスタッフに加えることを希望したこともあずかっている。このことからもわかるように、八代は中脇優子に熱い関心を寄せていた。その関心は彼女の入社のときから持続している。  むしろ時間が経過するほどに、関心はますます熱っぽくなってくるようであった。こうして優子をスカウトして自分の職分上の支配下において、彼女を独占しようとしたのである。  その他の六人のアシスタントは、すべて男で、工員出身者が大半である。こちらのほうは技術者の手足となって動ける程度の化学的な知識があればよかった。  アシスタントは別にして、これら四人の技術者は、言わば大日皮革技術陣のえりぬきであり、いずれも一騎当千の逸材であった。八代はこのエリートたちのチーフとして、試験所を管理したのである。  ところが八代はこの部下たちに対してすら、チンメルマン・データやメルーサのノウハウを知らせなかった。研究資料のいっさいをすべて一手に握り、技術者たちは、ただ自分の研究の道具としてしか使わなかった。  八代にとっては、資料を掌握していることが、そのまま自分の保身と、将来を保証することになるのである。特に会社が付けてくれた古木や堀口は、技術者としていずれも八代以上の実力を備えている。  彼らよりも八代が辛うじて優位を保っていられるのは、彼らにないデータを握っているからに他ならない。この場合、チンメルマン・データとメルーサのノウハウは、八代の身を守る二重のバリケードであり、堀であった。  だから八代は、大日皮革の中でも一敵国を形成した感のある試験所においてすら、部下たちから孤立していたのである。八代をめぐって、研究室の中に憎悪が少しずつ堆積《たいせき》していった。それは、狭い場所的な限定をうけていたために、救いようもなく内攻《ストレス》していったのである。  ほんの少々の外力を加えるだけで、爆発しそうなストレスは、そのバランスを巧みに保って、爆発寸前のエネルギーをよく抑制していた。  だがそれにも遂《つい》に限度がきた。限度いっぱいに耐えたストレスは、わずかの刺戟《しげき》によって誘発された雪崩《なだれ》のように、戦慄《せんりつ》的な犯罪を惹《ひ》き起こしたのである。      3  試験所が開発に成功した新製品メルーサは、圧倒的な売行きを見せた。天然皮革に劣らない感触と強度をもち、しかもはるかに安価なメルーサは、業界に「メルーサ旋風」という言葉を生みだしたほどに、同類の人工皮革を蚕食《さんしよく》した。  八代は面目を施した。メルーサの開発には、試験所の配下技術者やアシスタントの献身的な協力が大きくあずかっていたのであるが、功名は八代がほとんど独占してしまった。  全社的な反感もなんのその、八代はメルーサ開発の功労者として顕彰された。だれがなんと言おうと、企業というところは、社の利潤の追求に最も貢献した者が、最も報いられ、いちばん幅をきかすような仕組みになっている。  八代のメルーサ開発は、チンメルマンの知遇を得た幸運と、そのデータを独占した専横の結果であるが、会社としては現に莫大《ばくだい》な収益をもたらしているのであるから、�社宝�扱いをする。  メルーサの初期製品に、古木の発見した改良データを加えて、さらに工夫をこらした製品としたために、メルーサの人気は高まるばかりであった。  大日皮革では、八代を同業ライバル社にスカウトされないために、現役社員に対しては前例のない、�名誉社員�にすることを彼について考えた。  名誉社員は、社の存続発展のために大きな貢献のあった社員に贈られるもので、業界最古の老舗《しにせ》を誇る大日皮革においても、まだ数えるほどしかいない。  それも単に名誉だけではなく、名誉社員の身分を取得する以前に(現役で取得した者がいないので)本人が得ていた最高額の給料を終身保証されるという物質的な裏付けがある。  八代の場合は現役なので、現在の給料が、本来の給料に加えて一生もらえることになるわけである。  これがわずか二十代の入社歴数年の新人にあたえられようというのであるから、まことに異例の処遇であった。 「中脇君、すまないが、このデータを今日中にテストしておいてくれないか」  土曜日の午後、帰り支度をしていた中脇優子は、まさに「お先に」と挨拶《あいさつ》をしようとした矢先に、八代から仕事を命じられてしまった。今日は彼[#「彼」に傍点]とデートの約束をしてある。ここのところたがいに忙しくて逢《あ》っていないので、もはやどうにもこらえられないほどに渇き切っている。  躰《からだ》の渇きは、相手のことをちょっと考えただけで、逆にその奥がうるんでくるほどに進んでいる。もし今日逢えなかったら、本当に気がおかしくなってしまうのではないかとおもわれるほどに、男が恋しかった。  しかしこんなときにかぎって、八代は意地悪く仕事を命じるのである。今日も八代の目から隠れるようにして、帰り支度をはじめたとき、なんとなく、こんなことになるようないやな予感がした。  八代には、優子の心の奥を読む、動物的なカンが発達しているのかもしれない。 「あの、どうしても今日中にテストしなければいけないのでしょうか?」  優子は、半泣きの表情になって聞いた。 「うん、どうしてもなんだ」  八代の口調に妥協はなかった。優子は八代の命令を突っぱねて突っぱねられないことはなかった。八代にしても、突然の残業を強制することはできない。  だが拒《は》ねつけた後にくるものが恐かった。それは直接自分に来ずに、愛する男にはね返って行く。この試験所は外部から隔離された閉鎖社会である。一種のタコ部屋である。そのタコ部屋のボスたる八代は、やろうとおもえばどんな専横も押し通せる。八代の専横が、愛する男の将来を変えることもできる。  とにかく八代は、現在、大日皮革全社の中でも抜き難い実権を握っていた。社のドル箱メルーサの開発者として、首脳陣すら下へもおかぬ扱いをしている。いやな男だが、同時に最もマークしなければならない危険人物であった。  それにしても——と優子は時々くやしさのあまり唇をかんだ。  彼女に庇《かば》うべき男さえいなければ、八代づれにびくびくすることはないのである。優子ほどの器量と技術者としての腕があれば、どこへ行っても通用する。  社内でも、配転を希望することができる。それができなくなったのは、優子が恋をしたからである。しかもその相手が同じ試験所の堀口であることが、彼女の立場を弱めていた。 〈女は恋をするとだめだわ〉  と彼女はこのごろつくづくおもうのである。自分のことよりも、まず恋する相手の利、不利益を考えてしまう。八代は彼に対してサラリーマン的な生殺与奪の権を握っているといってよかった。  八代が彼女の相手を知ったときから、彼はその権力を最高にふりかざしてきた。それが優子にどんなに絶大の効果を発揮するかをよく承知して、堀口を不当にシゴクのである。  これは悪質な恫喝《どうかつ》であり、脅迫であった。  優子も堀口との仲を知られると、こんなことになるだろうという予測がついたので、つとめて彼との仲を隠していたのだが、猫の額《ひたい》のような職場で毎日顔をつき合わせているのであるから、所詮《しよせん》、隠し通せなかった。  八代が優子に熱い関心を寄せていたことは、試験所へスカウトされたときからよくわかっていた。八代は彼女にとって、異性としてまったく無色であった。男としての興味をまったく惹かれないのである。だから最初に試験所スタッフとして選ばれたときは、純粋に仕事上の興味から承諾した。  そのうちに堀口との間に熱い感情の交流が起きた。それと同時にそれまで無色だった八代が、男の中で最も唾棄《だき》すべきいやらしい存在になってきたのである。  もともと独占欲の強い八代は、仕事を独占し、データを独占し、優子をも独占しようとして、彼女を自分の管理下において、機会を虎視眈々《こしたんたん》と狙《ねら》っていた。そこをべつの男、それも部下にさっとばかりにさらわれてしまったのである。  八代の専横はこのころから増悪[#「増悪」に傍点]されたようであった。  優子にとって八代ごとき問題ではない。べつに大日皮革に骨を埋める意志はないし、またいやならいつでも飛び出すつもりであった。  しかし男の場合、ことはそう簡単にいかない。堀口も技術者として一流の腕をもっているから、どこへ行っても通用するだろう。だが男の職場というものは、女よりも根が深い。それを変るということは、せっかく付きかけた根を引き抜いて、社風や人間関係や諸設備のまったく異なる新しい土壌への根付けを、また最初からやりなおさなければならないのである。  これは男にとってかなり苦痛なことである。果たして根が新しい土壌に馴染《なじ》むかどうかの大きな賭《か》けでもあった。もし根付けに失敗すれば、あたら優秀な樹木が枯死してしまうことになる。  優子はいま愛する男に、そんな危険な賭けをさせたくなかった。  彼女は、八代から渡されたデータ表を怨《うら》めしそうに眺めた。見たところ、基礎的な数値の確認テストで、さして急を要するものともおもえない。それに彼女でなくともできそうな単純なテストばかりであった。しかし手順が複雑で、時間は確実にかかる。 「簡単な基礎数値のチェックだが、いずれも重要なデータなので、他の者には任せたくないんだ」  八代は、優子の肚《はら》の中を見すかしたようにだめ押しをした。彼女は今日のデートをあきらめた。そのとき八代に対する殺意に近い憎悪を覚えたのである。  テストは退屈きわまるものであった。確認作業であるから、時間ばかりが確実に流れ去って、実験に伴う、未知のものを発見するという期待と驚きがない。  それでも優子は熱心にその退屈な作業を消化していった。いやなことはできるだけ早く終らせるというのが、彼女の主義である。  テスト室は地下になっている。広さは約七、八坪、小さな換気口とあかり取りの小窓が天井にあるほかは、床も壁もコンクリートである。  室内は薬品棚が所せましとばかり吊《つ》るされ、実験台、洗い場《ペーシン》、水槽、実験器材、電熱器などがひしめき合うように配置されている。外気の影響を最小限に抑えるために、換気口を機能するぎりぎりのところまで小さくしてあるので、室内には鼻を刺すような酸臭《さんしゆう》がいつもたちこめている。  しかしスタッフは嗅覚《きゆうかく》があらかた麻痺《まひ》していて、あまり気にならない。  優子がテストをはじめてから、二時間ほど経過した。ようやくテストは終りに近づいていた。 「あと一項目《ワンアイテム》だわ」  彼女はホッと息をついた。その一瞬の緊張の弛緩《しかん》したときを狙うように、背後に人の気配が動いた。 「あら、だれかしら?」  ふとうしろを振り向いた彼女は、そこにてれくさそうな笑いを浮かべて立っている八代の姿を見出した。 「あら! 八代さんはまだお帰りにならなかったのですか」  優子は少し驚いてたずねた。 「まさか、きみ一人に仕事を押しつけて、ぼくだけ先に帰れるとおもうかい」  八代は、優子の土曜の午後の楽しいスケジュールをめちゃめちゃにした張本人のくせに、殊勝なことを言った。  しかし彼女にしてみれば、どうせこの時間まで八代が残っているのなら、彼がテストをすればよかったのにという気持がある。もしこれが八代の上司としての部下に対するおもいやりであるとすれば、ずいぶん的はずれのおもいやりだとおもった。 「それにね、一人で下宿ヘ帰っても、だれも待っていてくれる人はいないし、きみといっしょに食事でもしようとおもって待っていたのさ。もうそろそろテストも終るころだろう」  八代はぬけぬけと言った。  なるほど、それが彼の狙いだったのか。——優子は彼の魂胆を見すかして、むしょうに腹が立ってきた。 「残念ですけど、私、ちょっと帰りに予定がありますので、ごいっしょできませんわ」  優子はニベもなく言った。恋人に対する影響など考えてはいられなかった。八代といっしょに食事をするなんて、考えただけで食欲がなくなってしまう。 「まあそんなに手間は取らせないよ。今度新しくできたホテルのスカイレストランに予約をしておいたから、行ってみないか」 「ご好意だけいただいておきますわ。本当に私、今日用事がありますの」 「それじゃあ、今日はもうテストを切り上げて、時間を浮かしてくれないか」 「でも、このテストは今日中にしなければいけないんでしょ」 「いや、そんなに急がなくてもいいんだ」 「まあ!」  優子の顔色が変った。八代は優子を熱心に誘うあまりについ失言をしてしまったのである。 「それじゃあ、八代さんは嘘《うそ》をついていらしたのね!」  優子に問いつめられて、八代はようやく自分の失言に気がついた。 「いや急いでいることは急いでいたんだ。でももうここまでできていれば、テストは終ったも同じだからね」  と慌てて言いなおしたが、もう遅い。 「八代さん、ひどいわ! 八代さん、私、今日人と逢《あ》う約束をしていたのよ。それほど急いでいないテストだったら、月曜日にまわしてくださってもよかったのに」  優子は正面から八代の顔をにらんだ。このようなときの彼女の面《おもて》は、いつもの明るい美貌《びぼう》が、研ぎすまされたようになって、美しい迫力を帯びてくる。 「だれと逢う約束をしていたんだ?」  優子に詰《なじ》られてたじたじとなりながらも、彼女の約束《アポイントメント》の相手に八代は嫉妬《しつと》した。 「そんなことあなたに関係ないでしょ」 「ふん、おれにはちゃんとわかっているんだ」  八代は急に言葉遣いを崩した。 「きみが堀口とどの程度の仲になっているかということもね」  八代は瞋恚《しんい》に燃えた目を淫《みだら》に輝かせて、優子の下半身に向けた。男を迎え入れて放恣《ほうし》に開いた彼女の裸身を、衣服の上から想像している目である。優子は自分の悦楽のためにとったあられもない貪欲《どんよく》な体位を、実際に八代に覗《のぞ》き見られたような気がした。 「失礼だわ!」  憤然としながらも、顔が赧《あか》くなるのを防ぐことができない。怒りではなく、羞恥《しゆうち》による紅潮であることが、八代の傍若無人な視線を認めた形になった。  八代はその機微を敏感にとらえた。 「やはりきみたちは、ぼくがおもっていたとおり、不潔な関係に入っていたんだな」 「不潔だなんて、失礼だわ!」  優子の胸の奥から本ものの怒りがこみ上げてきた。頬《ほお》の紅潮は、今度こそ怒りによるものになった。 「あんな男にいつまでくっついていても、どうにもならないよ。それより、もういいかげんにぼくの気持をわかってくれてもいいだろう。ぼくはきみと結婚してあげてもいいとおもってるんだよ」  女に向けるプロポーズにおいてすら、八代は恩着せがましい口調を失わない。あたかも自分のようなエリートから口説かれたことを有難くおもえと言わんばかりの調子である。  世界中の男という男が死に絶えて、八代一人になったとしても、自分は拒絶するだろうと、優子は嘔吐《おうと》しそうな嫌悪感に耐えながらおもった。 「ぼくはきみを好きなんだ。もういいかげんにわかって欲しい。今日きみにテストを頼んだのもきみと二人だけになりたかったからなんだ。過去にはこだわらない。ぼくは間もなく名誉社員になる。きみはぼくに従《つ》いて来れば必ずしあわせになれるんだよ」  優子が怒りのあまり沈黙しているのを、自分に都合よく解釈したらしい八代は、勝手な口説を進めてきた。 「さ、わかったら、食事に行こう」  八代は、優子の肩に手をかけた。瞬間彼女は蛇にでも触れられたような気がした。 「よしてください!」  身体をゾクリと慄《ふる》わせて後じさった。 「よせだって?」 「私の体に触らないで!」 「なんだと!」  八代の顔色が変った。ふだんあまり感情を表にあらわさないだけに、それが露骨な怒色に満面を染めると、別人のように凶悪な表情になった。  優子は、そのときこの実験室に、彼と二人だけでいることにようやく気づいた。この部屋は、外界の影響を遮断するために地下に設けられてあり、厚いコンクリートの天井によって一階と隔てられている。  出入口もスチール製の防音ドアによって仕切られ、外部から不用意に開けられないように、自動ロックになっている。  八代は、彼が主任として管理しているマスターキイによって入って来たのである。もし彼が暴力をもって襲いかかって来れば、優子がどんなにわめき、叫ぼうと外部には届かない。  またかりに届いたとしても、この時間にはだれも残っていないはずである。  八代もさっき言ったではないか、 「きみと二人だけになりたかったからだ」と。——  べつの意味の慄えが、優子の全身を走った。 「そんなにおれのことを嫌いなのか!」  八代はじりっと彼女の方ヘ近寄った。 「どうせ堀口に蝕《むしば》まれつくした体なんだろう」  八代は、優子をめぐって堀口との間に決定的な差をつけられていることに、怒りを覚えた。ましてそのライバルが自分の部下であることに、ひどくプライドを傷つけられたような気がしたのである。  その差をいっ気に縮める方法がある。怒りに燃えていた八代の目が、男の欲望に充血してきた。 「おねがい、許して」  優子が懇願したことが、逆効果となってしまった。男にかすかに残っていた理性の自制が消えた。  彼は獲物に跳びかかる獣のように、恐怖に打ち震えている女の体に向かって跳躍した。 「たすけて!」  優子の必死の叫びを、コンクリートの壁は空《むな》しく吸収した。薬品棚が揺れ、フラスコが倒れた。ガラスの割れる音がした。女の必死の抵抗も、男の暴力をそそるだけであった。  八代は計算された動きをもって、優子の抵抗を一つ一つ排除していった。こういうことに熟練している者のように、動きに無駄がない。彼女が抵抗を繰り返す度に、どう救いようもない蹂躙《じゆうりん》の姿勢ヘ追い込まれていくのである。彼女がおもいきって抵抗できない条件にあったことが、その姿勢を速めた。 「こんなことをして、ただですむとおもってるの」  男の腕力によって、完全に折り敷かれたあと、彼女はせめて自由な口で抵抗をした。 「訴えたければ、訴えてもいいさ。ぼくはとにかくきみが好きなんだ」  人生を計算だけで生きているような男が、まさに獣そのものになりきって、彼女を貪《むさぼ》ろうとしていた。おそらく彼女に向けた関心が、堀口との比較にかけられて沸騰し、日ごろの計算が一時的に背後に押しやられたのであろう。  それだけに、優子にチャンスがなかった。エリートの保身本能も、この場合、男の獣欲に一歩譲っていた。  鼻をつく酸臭のたちこめる中で、優子は八代に犯された。途中から彼女は抵抗を放棄した。八代を許したのではなく、自分の身を庇《かば》ったのである。実際、抵抗をつづけていると怪我《けが》をさせられそうな気がした。 「あまり乱暴しないで」  と言って、力を抜いた彼女に、八代は許容されたものと手前勝手に解釈したらしい。その身体の重ねかたは横柄で、ずうずうしかった。  単にその部分を貸しているだけの優子の姿勢にも、十分満足した様子である。セックスの態度にすら、彼の独善的な性格があふれていた。 「これでもうきみは、ぼくのものだ」  一方的におもうさま飽食した八代は、勝ち誇ったように言った。優子はもはや反駁《はんばく》する気力もなかった。少しも早く、この狂犬に襲われたような呪《のろ》わしい時間が、過ぎ去ればよいとひたすら願っていた。 「もういいんでしょ」  優子は、八代がいちおう満足して、力を弱めた隙《すき》に、さっと起き上がって、身仕舞いをした。押し開かれたままの体位を、いつまでも男の目に晒《さら》しておくと、貪欲な欲望をよみがえらせるおそれがある。  勝ち誇っていた八代の表情が、さっそく未練がましくなっていた。 「きみは、訴えるかね」  八代は手段はどうあれ、身体を重ねてしまった男女の間の、特殊な親しみをこめて聞いた。男の欲望がひとまず鎮められて、サラリーマンの保身本能がよみがえってきたらしい。 「きみは訴えられないよ。いいかね、これは合意の上でのことなんだ。もし訴えれば、自分の恥を晒すことになる。堀口だって、きみが途中から私を許したということを知れば、決して愉快にはおもわないだろう。黙っているんだ。黙っていれば、なにもおこらなかったことになる」 「計算していたのね」  優子は冷えた頭で言った。 「計算?」 「そうよ、あなたは最初から私が訴えないだろうということを計算していたのよ」 「きみがそうおもいたければ、おもってもいい」 「あなたは私の体が欲しかっただけよ。こういう状態に追い込んで、犯してしまえば、自分の勝ちだと。卑怯《ひきよう》だわ」 「卑怯だとはおもわない。最初に暴力を振ったのは悪かったけど、それだけきみのことが好きだったんだ。責任は取る。だから堀口のことなんか忘れてしまってくれ」 「とにかくここから出して」 「また逢《あ》ってくれるね」  八代の面には、はっきりと未練の表情が浮かんでいた。獣は一度味わった獲物の美肉の味に、再度の欲望をよみがえらせようとしている。  これ以上ここにいるのは、危険であった。被害は最小限にとどめるにこしたことはない。いまは八代の優子の身体に突き立てた牙《きば》の傷が、決して致命傷ではなかったということを、相手におもい知らせてやることが、彼女にできるせめてもの復讐《ふくしゆう》であった。      4 「おれはもうがまんができない」  平素、温和な古木正三が、珍しく興奮した口調で言った。かなりアルコールも入っていたが、彼の頬《ほお》の紅潮は怒りによるものである。 「メルーサにぼくのデータを加えただけでなく、今度の学会にすべて自分の名前で発表しているんだ。それでいてぼくに一言の挨拶《あいさつ》もない」 「古木さんの腹立ちはわかりますよ。だいたいメルーサの開発だって、ぼくら三人の協力があったからこそできたんだ。それを八代は自分一人の功名にしてしまった」  堀口が古木の怒りを煽《あお》り立てるように言った。いや堀口自身が古木以上に怒っているのである。いままでに彼の研究成果も、ずいぶん八代に盗まれているのだ。ここは古木の借りているアパートであった。独身の彼は、会社側が用意してくれた社員寮が、会社の延長みたいでいやだと言って、北区のはずれの民営アパートに下宿している。  その日、会社が終わると、古木は、話があると言って堀口と優子を自分の部屋ヘ誘ったのである。  買いおいた酒を、優子が気軽に台所に立ってインスタントにつくったサラダなどを肴《さかな》にして飲みながら、古木がぶちまけたのは、八代に対するうっぷんであった。 「おれはもう大日皮革をやめようかとおもってるんだ。なにもあすこだけが皮屋じゃないもんな」  古木は茶碗《ちやわん》酒をぐいぐいあおりながら言った。もうこれまでにかなり入っている。身体にアルコールが蓄積されるほどに、八代に向けた憎悪が激しく燃え上がるようである。 「古木さんがやめるのなら、ぼくもやめますよ」  堀口が迎合した。しかしこちらのほうはかなり酒による興奮があるらしい。 「きみはやめないほうがいい。いまきみがやめたら、あらゆる意味でマイナスだ。きみを強くかっている重役もいるしな」  古木はたしなめるように言いながら、少しまぶしそうな視線を優子の方へ向けた。古木と堀口の間だけの、優子には聞かせたくない情報があるらしい。古木の視線にはためらいと憐愍《れんびん》があった。 「二人とも、やめることばかりしか考えていないのね」  優子が口をはさんだ。古木の視線の奥にあるものにはべつに不審はもたなかったようである。 「そのままやめたら、八代にいいように利用されて、裸で放り出されるようなものだわ。くやしいとはおもわないの!?」  優子の目も燃えていた。いままでも三人で寄り集まって、八代に対する愚痴や不平をこぼし合ったことはある。だがそれはどこの職場にもある、なんの生産性もないサラリーマンの愚痴と同じであった。  優子はいつも二人の男の聞き役にまわっていた。男たちは彼女の前で愚痴をこぼすと、その場かぎりのことではあったが、とにかく、胸に内攻したうっぷんが晴れた。  彼女は男たちの、八代に対するうらみつらみにうなずき、同情し、慰めた。彼女自身も堀口と関係ができてから、八代に対して反感をもつようになっていたから、その同情や慰めは、親身であった。  だが今夜の優子は、これまでとちがっている。いままでは男の愚痴の聞き役にすぎなかったものが、積極的に彼らを煽《アジ》っている。彼女は男たち以上に、激しい憎しみを八代に燃やしていた。  優子はあれからさらに数回、八代から強引に関係をつけられていた。八代は、彼女の堀口への愛が深いのを知って、それを脅迫のタネにした。  もし応じなければ、すべてを堀口に話すと脅《おび》やかした。堀口に告げられることは、なんとしても防がなければならない。いまの優子にとって堀口を失うことは、生きている意味を失うほどに重大であった。  堀口のウエイトの大きさが、八代に対する彼女の立場を弱めていた。本来ならば彼女のほうが被害者である。被害者の告訴権をもって、むしろ八代のほうが脅やかされる立場にあった。  破廉恥罪の典型ともいうべき強姦《ごうかん》犯人として、優子から親告されれば、いかに八代のエリートの地位が強固なものであっても、ひとたまりもない。  優子はその強い立場を、女の目先の保身から捨ててしまった。束《つか》の間《ま》の保身のために投げあたえた餌《えさ》は、たちまち二人の立場を逆転させた。  八代が貪《むさぼ》った餌は、�実績�となって、彼の立場を強めた。優子が保身のために餌を投げ出せば投げ出すほど脅迫のタネを強化するという悪循環を生んだ。  彼女がそれを悪循環だと気がついたときは、すでに遅すぎたのである。  才媛《さいえん》のエリート技師も、女の弱さにおいては、ふつうの女とまったく変りはなかった。 「それはくやしいさ。しかし、現実にどうすることもできないだろう」  堀口がいつもとちがう優子の様子に、少し驚いたように言った。もし彼が八代によって優子の犯されたことを知ったら、どんな反応を示すか、彼女は危うくそれを告げたい衝動に駆られたのである。 「なにか八代におもい知らせてやるてだてはないかしら?」 「ああ、そんなてだてがあったらなあ。本当にいまのぼくの気持はあいつを叩《たた》き殺してもあき足りないくらいなのだ」  古木が血走った目を宙に据えた。 「殺す?」  堀口と優子が同時に繰り返した。古木が腹立ちまぎれに口走った言葉が、二人に電気に触れたような反応をあたえた。その反応は、まるで逆輸入したように古木にはねかえった。 「そうだわ、あんなやつ殺しちまえばいいんだわ」  優子が目を輝かせた。彼女は自分がいま、どんなに反社会的なことを言っているか気がつかない。ただ古木の言葉に触発されて開いた新たな展望に興奮していた。  それは暗い、荒廃した展望である。だがそこには確実に行きづまったかに見えた袋小路を脱け出て、新たな局面ヘ通ずる道がのびていた。 「殺しちまいましょうよ、ひとおもいに」  がらにもなく飲んだ酒の酔いが、彼女の健全な理性を麻痺《まひ》させていた。またそんなものが働いたところで、この場合、八代への憎悪のほうが強かった。 「しかし殺すのは、人間だよ。ネズミを殺すようなわけにはいかない」  堀口が三人の中ではいちばん冷静なようである。 「それを三人でこれから考えましょうよ。八代がいるかぎり、あなたたち、大日皮革じゃ一生うだつが上がらないわよ。どうせみんなからひどく憎まれている人間だから、うまく殺せば、大丈夫よ」 「しかし、我々が殺したということが、わかれば、どっちみち我々の将来はない」  古木の言葉は、すでに殺人を肯定したうえでの危惧《きぐ》であった。 「私、いますばらしいアイデアを考えついたのよ」  優子が古木の危惧を嗤《わら》うように言った。その表情は、まるでなにかおもしろい遊びでも考えついたかのように、楽しそうでさえある。 「すばらしいアイデア?」 「なんだい、それは?」  二人の男は、優子の前に身を乗り出した。 「殺人が露顕するのは、たいてい死体からでしょう。アリバイだの、トリックだのといろいろな防衛手段を講じて、完全犯罪をたくらんだつもりでも、結局は殺した死体の存在を前提にしてのことだわ。だからどんなにうまくやったつもりでも、結局、足がついてしまうのよ」 「しかし殺せば死体が残るのは、しかたがないだろう」 「だから死体そのものを完全に消してしまうのよ。死体さえなければ、殺人事件は成立しないわ。アリバイだの、トリックだのを弄《ろう》する必要は全然なくなるわ。死体がないんだから、犯罪があったのかどうかもわからない。警察も捜査のしようがないでしょうね」 「しかし人間の死体をそんなに完璧《かんぺき》に隠す方法はないだろう。どんなに上手に隠しても、結局は発見されて、犯人は逮《つか》まってしまう。日本の警察は、優秀だからなあ」 「それがあるのよ、完璧に隠す方法が。隠すと言うより、消すと言ったほうが正確ね。死体さえ消しちまえば、絶対に安全よ。新聞に出てたけど、昨年の家出|失踪者《しつそうしや》は、十万人もいるんですって、この数字は捜索願いの出されたものだけだから、実数はもっと多いはずだわ。昭和三十二年からの統計だと、家出したまままったく行方のわからない蒸発者は、全部で九万三千人もいるのよ。八代が消えても、この蒸発人の仲間になるだけだわ」  古木と堀口は、優子がそんな数字を心に留めていたことに一驚しながらも、彼女がそれをマークしたとき、すでに意識に潜在させていた恐ろしい意図にまでは、おもいがまわらなかった。 「しかし、消すと言ったって、どうやって?」  古木と堀口は、完全に興味をそそられた顔になっている。いま彼らは凶悪な殺意よりは、好奇心に支配されていた。 「溶かしちゃうのよ」 「溶かす!?」  二人の男は、あんぐりと口をあけた。優子の言ってることが、あまりにも奇想天外におもえたのである。 「二人とも化学者のくせに、なにをそんなに驚いた顔をしてるのよ。死体を溶かすという手は、なにもそんなに新しいことじゃなくってよ。前例がいくつもあるわ。硫酸《りゆうさん》の中に浸《つ》ければ、人間の体なんて骨も残さずに溶けちゃうわ。試験所のテスト室は、おあつらえむきに実験用溶解設備が全部|揃《そろ》ってるじゃない。死体からあらかじめ非溶解性のガラスだのプラスチックだの取り除いて処分してしまえば、証拠はなにも残らない。この世の中から、不要な人間が一人きれいさっぱり蒸発してしまうのよ。どう? すばらしい考えだとおもわない」  優子は話しているうちに、自分のおもいつきに酔ってきたらしい。目がキラキラと輝いて、まるで優れた芸術に陶酔しているような表情になった。 「しかし、人間を溶かしちゃうとはなあ」  堀口が大きくため息をついた。八代に向けた憎悪は大きくとも、殺してその死体まで溶解してしまうという悪魔的な発想に、すぐにはついていけなかったようである。 「堀口さんらしくもないことを言うわね。死体はどう処理しようと、死体よ。憎い人間を、この世から化学的に蒸発させてしまう。いかにも私たちの復讐《ふくしゆう》にぴったりじゃない。これは殺人ではなくて、化学的な処理よ。殺人というものは、死体が残るから、殺人行為との間に因果関係をたぐられて、罪になるんだわ。死体そのものがなくなってしまえば、行為も消えてしまうわ。ねえ、やりましょうよ。八代がいるかぎり、お気の毒だけど、お二人に目は出ないわよ」  男たちは黙った。それは拒絶の沈黙ではない。優子の危険な言葉が、彼らの中に浸透し、徐々に彼ら自身のものとして醗酵《はつこう》しているために生じた沈黙である。  人体を溶解する——というあまりにも強烈な着想に、日ごろきわめて常識的な生活を送っている彼らはすぐには順応できなかった。  女から吹き込まれた凶悪な毒素は、彼らの中に残された醒《さ》めた部分とも言うべき、理性の猛烈な抵抗を受けていた。その格闘が、彼らから言葉を奪った。  しかし着実に毒素の領域は拡大しつつあった。それが毒素の醗酵として、彼らの内圧を強めている。沈黙が長引いたのは、その内圧に圧倒されたせいもある。  重苦しい沈黙に耐えられなくなったのは、とうに理性との葛藤《かつとう》を終えていた優子である。 「どうしたのよ、二人とも黙り込んでしまって」  古木と堀口はたがいの目を見合った。自分だけで判断を下すには、行為の対象があまりにも�非日常的�である。 〈やるか〉 〈おもいきって……〉  二人の視線が宙に交叉《こうさ》して、火花を発した。彼らの内に残っていた良心のかすかなためらいは、合体した二つの悪意によって完全に駆逐された。 「ねえ」  優子がもどかしそうにうながした。二人の男がうなずいたのは、ほとんど同時である。 「じゃあやるのね」  優子の声が弾んだ。まるで楽しい計画がまとまったように、彼女は喜色を表に顕《あら》わした。      5 「もののはずみ」ということがある。古木と堀口に内攻していた八代に向ける憎悪は、救いようのないほど激しいものであった。  それはまさに殺意に近いものと言ってよかった。だがあくまでも、殺意そのものではなかった。それが優子を加えて三人寄り集まり、酒が入り、優子が示唆した「溶解」という恐るべき方法による犯罪そのものの抹消が、彼らに殺人の反社会性を忘れさせた。  正確に言うならば、犯罪の抹消ではなく、犯跡の抹消であろう。犯跡をいくら消したところで、犯した罪が消えるわけではない。  だが死体そのものを消してしまうというアイデアが、犯行自体を抹消するような錯覚をあたえ、彼らの罪の意識を稀薄《きはく》にしたことは事実である。  いずれも最高学府出身の理非の弁別力を十分に備えているはずの彼らが、堆積《たいせき》したサラリーマン的憎悪を、いとも簡単に凶悪な意図に変えてしまった。  優子が、溶解などというおもいつきを口にしなかったなら、サラリーマンの自衛本能と、臆病《おくびよう》さが、最後の歯止めとなって、彼らを恐るべき犯罪に駆り立てなかったかもしれない。  常識的な社会人は、犯行を決意する前に理性の歯止めがかかる。その歯止めは、社会一般人を基準にした適法か違法かの識別力である。違法な行為に出ようとするときは、たちまち、理性の自動|制禦《せいぎよ》機構がフィードバックして、適法行為への修正指令を発する。  ところがこのオートメーションは非常にデリケートにできていて、ちょっとしたはずみでバランスが崩れると、中枢の自動調節器《サーモスタツト》が狂う。それが中枢と末端の行為との間に乱反射を増幅して、救いようのない狂気を速やかに誘発する。  凶悪犯人があげられてから、「あんな人が」「信じられない」と驚かされるのは、正常と狂気、常識的と反社会性の境界を画す理性のサーモスタットのデリケートな脆《もろ》さを示すものである。  彼らの場合、「人間溶解」という恐るべき犯跡|隠蔽《いんぺい》の手段が、彼らの理性と恐怖心に訴えかけるかわりに、逆にそれを麻痺させる効果をもった。それはやはり堆積された憎悪が、理性のフィードバック・オートメーションを狂わせたと言える。  いったん犯罪を決意すると、もはやその決心は揺ぎないものとして、彼らの中に定着し、理性のサーモを完全に圧殺した。  まず問題になったのは、八代殺害の方法である。優子が示唆した溶解は、死体の処理法であって、殺し方ではない。直接八代を硫酸の中に浸けられれば、殺害と死体処理が同時に行なえて理想的なのだが、生きている八代を、いきなり硫酸の中へ引きずり込むのは難しかった。  いったん意志が定まると、彼らはその方法を討議するために何度も寄り集まった。会合を重ねれば重ねるほどに、彼らの決意は堅いものになっていった。  もはや彼らにとって八代の抹殺は、どうしても為《な》さなければならないことであり、その方法を検討することは、生き甲斐《がい》にすらなっていた。彼らが連絡を密にし、頻繁に集まったのは、その生き甲斐を確かめ、決意を確認する意味もあったのである。  具体的な方法が煮つまってきた。殺人の実行は男たちが担当し、八代の誘い出しは、優子が受け持つことになった。そして実行日は、月末の土曜日ときまった。欲を言えば連休が望ましかったが、優子が早いほうがいいと主張したのである。  死体の溶解には多少の時間がかかる。溶解作用がはじまると強烈な悪臭を発するので、工場内に人がいないときを狙《ねら》わなければならなかった。 「私が八代を旅行ヘ誘い出すわ。あの人、前から私に熱海《あたみ》ヘ行かないかって、しつこく誘いをかけているのよ。箱根をドライブして、熱海へ一泊とでも言って誘えば、シッポを振って尾《つ》いて来るわよ」  古木も堀口も、八代が優子に執心していることは知っている。 「旅に誘い出して、旅先で殺すのかい? しかし死体をテスト室まで運び込むのが面倒にならないか?」 「その点は考えたわ。ドライブヘ誘って車の中で睡眠薬《クスリ》を服《の》ませて眠らせるの。眠っているのなら、あくまでもまだ生きているんだから、万一途中で検問なんかにひっかかっても怖くないわ。そして試験所ヘ運び込むから、あとはあなたたちの出番よ」 「車はどうする? ぼくらは車をもっていないし、八代にもって来られたら、車から足がつくかもしれない」  三人はともにカー・ライセンスは取得していたが、マイカーをもっていない。 「八代も車はもってないわよ。私がレンタカーを借りるわ」 「しかし、八代がきみとドライブに行ったまま消息を絶ったら、結局きみが疑われてしまうじゃないか」 「馬鹿ねえ、そんなヘマするもんですか。私まだ未婚なのよ。嫁入り前のお嬢さんが男といっしょに一泊旅行ヘ出かけるのに、おおっぴらに行くものですか。八代にもそのことはかたく言い含めるわ。あなたといっしょに旅行ヘ行くのは、絶対に秘密、それを守ってくれなければ、私行かないわよとでも言ってやれば、八代は確実に、そのとおりにするわよ。彼にとっても、部下の私と旅行ヘ行くことは、伏せておいたほうがなにかと都合がいいはずよ。そんな釘《くぎ》をささなくとも、あの自分の身を守ることに汲々《きゆうきゆう》としている男が、なんで部下の女との秘密の旅行をおおっぴらにするものですか。無類の用心深さで、行き先を隠して忍んで来るわよ」 「しかしそれには、きみと八代との関連をたぐられないようにしなければ」  古木と交互に質問していた堀口が、念には念を入れる表情をして聞いた。 「大丈夫よ。八代を試験所ヘ運び込んでから、どこかでアリバイをつくっておくわ」 「八代を誘い出す前は?」 「私、いまアパートの一人住いをしてるのよ。だれも私の行き先なんかに注意しないわよ。大都会の無関心というのが、こんなときに大いに役に立つわ」  優子は言って、知っているくせにというような目交《めま》ぜを堀口に送った。優子の父親は、隣県のS市で開業医をしている。両親の家にいると、なにかと束縛を受けるのがいやで、彼女は大学を卒《お》えると同時に、家から飛び出してしまった。  最初のうちは両親は、若い娘のひとり暮しを危ぶんで、しきりに家へ連れ戻そうとしたが、いったん言い出したらあとへひかない優子の性質に、このごろはサジを投げてしまった形である。  堀口も優子と関係ができてから、何度かそのアパートヘ泊まり込んだことがある。優子の送った目くばせは、二人の間だけに展《ひら》かれた秘密の悦楽を語りかけていた。  そこには彼らだけに通ずる妖《あやか》しの炎が燃えている。  実際、この計画が立てられてからの、優子の変貌《へんぼう》には目を見張らせるものがあった。彼女は以前からふくよかな暖かさの芯《しん》に、激しいものをかかえていた。だがその激しさは、いつもしっとりと柔らかい陰翳《いんえい》に包まれて、表に顕われることはなかった。  それが、八代という�目標�が設定されてから、いっさいの糖衣をかなぐり捨て、激しさだけが剥《む》き出しにされた感じである。それは彼女の中に進行しつつある生理的な変化が、精神面に影響をあたえたせいかもしれない。  それにしても、その変貌はあまりにも顕著であった。この恐るべき殺人計画を最初に示唆したのも彼女である。二人の男の理性を粉砕し、計画のイニシャティブを握って、いまはむしろ�主犯�ともいうべき位置にあって、練り上げた計画に最後の磨きをかけている。  彼女の変貌は、堀口との間のセックスにも現われている。以前は含羞《がんしゆう》の遮蔽《しやへい》の下に、ひっそりと彼を迎え入れた体が、息をのむほどに放恣《ほうし》な開角の体位をためらわない。ミステリアスな陰翳を失ったかわりに、メスそのものに還元した奔放な反応に、柔肉《やわにく》の構造を堪能させてくれるのであった。 「土曜の午後にレンタカーで誘い出して、クスリを服《の》ませて眠らせる。試験所ヘ運び込むのは、日勤と夜勤の守衛が交代する午後九時ごろにするわ。土曜日の夜だから守衛もノンビリしているわよ。試験所にいちばん近い裏の物品搬入口は、土曜には守衛がいないから、あなたたちがあらかじめ鍵《かぎ》を開けておいてちょうだい」 「わかった」  二人の男はようやく安心したようにうなずいた。 「それで実際に�溶かし�のほうはどういうふうにやるつもり?」  今度は、優子が聞く側にまわった。 「眠っているんだから、世話はない。そのまま硫酸に浸してしまう」 「骨まで溶けるのに、どのくらい時間が、かかるかしら?」 「硫酸の量と、八代の体重の比率によって、変ってくるが、彼の体重は約六十キロ、その体積を差引いて、テスト室にある実験用水槽には、約四百八十リットルの硫酸を入れられる。溶解速度を速めるためには、硫酸と塩酸の濃液を混合すればいいんだ。この混合液だと、まず五時間で人間の体を完全に溶かしてしまう。だが、それにはちょっと困ったことがあるんだ」  学問的|註釈《ちゆうしやく》を加えるように淡々と説明していた古木が、ふと口ごもった。 「困ったことって、なんなの?」  優子は心配そうに眉《まゆ》を寄せた。 「決定的な障害ではないんだがね、水槽の一部分が溶解性の物質でできているんだ」 「まあ!」 「実験用水槽に、なぜそんな材料を使ったのか理解に苦しむが、側壁に有機質が使ってあるんだ。かといって他にこれに代る死体を浸すような非溶解性の容器はない」 「それじゃあ、証拠が残っちゃうじゃない」  優子は、はっきりと失望を声にこめた。水槽が硫酸によって溶かされれば、動かぬ犯跡を残すことになる。これは致命的な障害ではないか。人間溶解は、まったく犯跡を残さぬところにポイントがあるのだ。 「そんなにがっかりしなくてもいい」  古木が苦笑して、 「何度か実験してね、その耐え得る限度は、硫酸混合度五十パーセントまでとわかった。だから濃度五十パーセントに硫酸をとどめれば、水槽を欠損しないですむ」 「でもそうなると、溶解に時間がかかるわね」  優子も技術者だけに理解が早い。 「そうなんだ。五十パーセントだと完全に溶けるまでに少なくとも、四十時間以上はかかるだろう。人体実験をしたことがないので、はっきりはわからないが、ネズミで実験した結果から類推してその程度の時間は見なければならない」 「それじゃあ結局だめじゃあないの」  八代を試験所へ運び込むのは、土曜日の午後九時ごろである。直ちに五十パーセント硫酸液ヘ浸したとしても、死体が液化するまでに工場がはじまってしまう。テスト室を閉鎖して、人を近づけなければ、溶解の現場を隠すことはできるが、溶解現象とともに発生する大量の動物性悪臭が外部ヘ漏れるのを防ぐことはできない。  彼らにとっては八代を完全溶解したあと、現場にたちこもった悪臭や、いっさいの証拠を消すために、十分な時間が必要であった。  それには溶解速度の速い混合液が欲しい。だがそれを使うと、水槽も溶けてしまう。痛し痒《かゆ》しとはまさにこのことであった。 「そんなに早くがっかりするなよ、中脇君も案外せっかちなんだな」  古木は苦笑をつづけた。 「そう言うところを見ると、なにかいい方法がありそうね、焦《じら》さずに早くおしえて」 「べつに焦してるわけじゃないよ。ちょっと工程がややこしくなるんでね」 「工程?」 「水槽を損うのは硫酸だ。だから水槽を救うためには、硫酸の濃度を低くしてやればいい。硫酸濃度を下げて、しかも人体の溶解力を弱めない希釈剤があればいいわけだ」 「そんなものがあるの?」 「重クローム酸ソーダだよ。これで硫酸を割ってやれば、硫酸濃度は下がっても、人体溶解力はあまり落ちない」 「重クローム酸ソーダ、それだったら、工場にいくらでもあるわ」 「そうさ、製革資材として毎日使っているものだから、ゴロゴロしている。少しぐらい使ったってわかりゃしない。まず第一工程として、これで溶解する。しかしこれだと骨を溶かすのに時間がかかるので、肉質の部分を全部溶かしたあとで、骨だけすくい集めて、塩酸との混合液で完全に溶解する」 「つまり二段階に分けてやるのね」 「うん。骨だけだったら容積もたいしたことはないから、小さなポットに移し入れて溶かせる。肉質はすっかり溶けたあとだから、臭いも出ないだろう」 「グーなアイデアね」  優子にくったくのない笑顔が戻った。その表情を見るかぎり、若者の楽しい相談がまとまったときの、明るいしあわせに満ちているようであった。 「きみもげんきんだな」  堀口の語調には驚嘆のひびきがあった。実際にこれまで隠されていた優子の悪女的な素顔が、露《あら》われてくるにつれて、彼はこの身体の隅々まで知りつくしたつもりの女が、なにか途方もない妖怪《ようかい》のようにおもえてきたのだ。  実行日が近づいてくるにつれて、古木はさらに極秘の実験を重ねた。  哀れな実験小動物を、硫酸濃度、塩酸との混合比率、分量等をさまざまに変えた中に浸して、溶解時間を測る。モルモットと要因との相関数値を割り出して、これを正確な八代の体重にかけ合わせて、相応値を算出した。  社内のクリニックに記録されている八代の最近の体重は、五八・六キロである。その測定日から、実行日まで大して増減はなさそうである。  数度にわたる実験の結果、重クローム酸ソーダ八十キロ、水七キロ、九十五パーセントの濃硫酸九十キロの混合液が、水槽を欠損せず、肉質を完全溶解するに六時間三十分という数値を得た。  この数値はあくまでも、骨格や肉質の異なるネズミを検体としての比較計算であるから、正確とは言えなかったが、いちおうの目安にはなった。  なお骨質の溶解時間は、検体の骨が、ほとんど重クローム酸ソーダ希釈液で溶けてしまったために、測定が不可能であったが、難溶解性の靴などの実験から類推して、市販の濃塩酸との混合液に浸して、約三時間で完全消化するという予測がもてた。  重クローム酸ソーダ、濃塩酸、骨質溶解用のプラスチックタンクなどが、次々に用意された。優子と八代との間に「ドライブ旅行」の約束も秘《ひそ》かに取り付けられた。  準備万端ととのい、あとはその日が来るのを待つだけとなった。      6  いよいよ決行日がきた。優子は、会社の人間が立ち寄る危険のない山手の喫茶店で八代と待ち合わせた。 「どうしてそんなところで落ち合うのか?」  と八代は最初不審顔をしたが、 「二人が逢《あ》っているところを、会社の人間に見られるといやだわ」  と優子が言うと、納得した。とにかくこがれていた優子からドライブに誘われて、有頂天になっていた八代は、彼女の言いなりであった。  暴力で無理矢理に犯してから、その後何度か強引に関係をしたが、彼女は硬い姿勢を崩さなかった。身体を任せても、八代の脅迫に屈したからであって、心から許したのでないことは、よくわかっていた。  それが彼のコンプレックスと怒りを煽《あお》り、ことさらサディスティックに優子の身体を貪《むさぼ》ったのだが、女が止《や》むを得ず身体を�貸して�いるにすぎないという不満感は拭《ぬぐ》えなかった。  その女のほうから、初めて積極的な誘いを受けたのである。八代は、優子にどんな心境の変化があったのか、詮索《せんさく》もしなかった。下手に詮索をして、せっかくその気になった女を心変りさせたら、元も子もない。  彼は一も二もなく承知した。優子は八代がどんな予定があっても、自分の誘いを最優先するということを承知していた。そこに大きな陥穽《かんせい》が掘られているとも知らず、八代は目の前にちらつかされた美味な餌《えさ》にガップリと食いついてきた。  美しい山の湖水を、女の運転する車で巡《まわ》り、その夜は伊豆のいで湯で、女の体を飽食できる。考えただけで、身体が火照り、血が悦楽の期待でざわめいた。  喫茶店で落ち合い、近くに駐《と》めておいたレンタカーを操って、東名高速に乗り入れたときは、八代は上機嫌で、すでに自分の生命が秒読みの段階に入っていることも知らずにはしゃぎきっていた。 「きみがライセンスをもっていたことは知っていたけど、こんなに見事なドライバーだとはおもわなかったよ」  八代は本心から感心していた。まったく優子の運転は安定していた。かなりのスピードを出しているのに、なんの不安も感じさせない。  小わざのドライビングテクニックはいっさい弄《ろう》さず、ムラのない運転を持続している。ハイウェイのスケールの大きい空間とタイミングを巧みに利用して、無用の技術はすべて排除し、風向や登り下りの諸条件に適合したアクセルワークを見事にコントロールしている。  レンタカーながら、乗り心地が満点なのも、彼女の運転技術に負うところが大きい。  八代は快適なスピードを維持して、車が目的地ヘ近づいて行くほどに、身体が興奮してきた。期待がいっぱいに脹《ふく》れ上がって、今夜の旅館の密室での濃密な愉《たの》しみが待ち切れないおもいであった。  一方、優子は午後九時前後までには東京ヘ戻らなければならなかった。守衛の交代は九時で、それ以後は人数が半分になる。物品搬入口にも彼らの詰め所があるが、土曜の午後から日曜にかけては、出入業者が来ないので、守衛はつかない。  ここから眠らせた八代を車で運び込んで、すぐ�作業�に取りかかるわけである。心配なのは、作業に伴う異臭であるが、正門の守衛詰所と、試験所は正反対の方角で、距離があるので、まず臭いが届くことはあるまい。パトロールも休日はかなりルーズで、だれも、試験所の方にはやって来ない。  厚木のICから、小田原道路ヘ出て、小田原から箱根新道を経由して、芦《あし》の湖《こ》スカイラインヘ入った。  八代は湖水の周遊よりも、早く熱海ヘ行きたい様子であったが、スケールの大きな眺望《ちようぼう》に恵まれたスカイライン・ドライブに入ると、すっかりご機嫌をなおした。  なだらかにつづく幾重もの山波、そのかなたに全容を露わした富士、右手に見え隠れする湖の青い水面、それは実際、スモッグを吸って生きている都会生活者の汚れを洗い流すような眺めであった。 「魂が洗われるような景色だな」  八代がガラにもないせりふを吐いた。 「東京では見られない景色よ、たっぷり眺めておくといいわ」  ——これがこの世の見おさめね——と彼女が心の中に追加したつぶやきは、八代の耳に聞こえるはずもない。 「これから湖水を一周して、十国峠から熱海ヘ下るのよ」  優子は淡々とした口調で言ったが、内心焦りはじめていた。なかなか八代を眠らせるチャンスがこないからである。途中のドライブインで休憩したが、人目が多くて、とてもクスリを服ませるどころではなかった。それにあまり早く眠らせてしまっても、まずい。  比較的スムーズに箱根までやって来たが、土曜日で車が多くて、後続車を振り切れない。駐車場のある展望台は、それこそ、盛り場の混雑をそのままもってきたようである。  だが、チャンスは遂《つい》にきた。桃源台へ着いたときに、八代は喉《のど》が渇いたと言いだしたのである。 「ドライブインで休憩すると、疲れが出て、運転が億劫《おつくう》になっちゃうからこのまま行かない? 悪いけどジュースでがまんして」  優子は、このときのために用意しておいた睡眠薬入りのジュースを、高鳴る胸を抑えながら差し出した。 「そのかわり、熱海に着いたら、ゆっくり、ね」と、ウインクしてみせた。 「熱海」の一語は、八代に魔法のような力をあらわした。彼女に運転するのが億劫になられては大変とばかり、ジュースのビンに飛びついた。  そしてそのジュースを飲むことが、熱海につながっているかのような勢いでいっ気に飲み干した。実際に喉も渇いていたのであろう。クスリの苦みも気がつかなかったらしい。  それからあとは、他愛なかった。クスリの効果はすぐに現われた。  眠っている上から毛布をかけてやると、恋人に運転を任せて太平楽に眠り込んだしあわせな男に見える。      7  帰途は、なんのトラブルもなかった。御殿場《ごてんば》のインターから東京ヘ入った彼女は、打ち合わせておいた時間よりも、一時間も早く工場ヘ着いてしまった。  早すぎるとはおもったが、すでに工場は深夜のおもむきであった。物品搬入口にも、人影はない。  約束の時間まで待つ必要もないらしいと判断して、おそるおそる車を運んで行くと、すでに男たちは待機していてくれた。 「早かったね」  堀口が声をかけてくれたのが、暗夜に灯を見つけたように嬉《うれ》しかった。 「道路が空《す》いていたのよ。よかったわあ、待っていてくれて」 「少し幅をもたせて、七時ごろから気をつけていたんだ。よく眠ってやがるな」 「途中、注射でクスリを追加したのよ」 「さすがの八代も、こうなってみると他愛ないね、天下太平の顔をしてやがる」  堀口は、大鼾《おおいびき》をかいている八代の頬《ほお》を軽く叩《たた》いた。 「恐かったわよ。クスリが効いているということはよくわかっていながら、いまにも目を覚ましそうで」 「よくやってくれたよ」 「さあ、早いとこテスト室ヘ運び込もう」  古木が醒《さ》めた声でうながした。まだ日勤の守衛がいるはずである。このへんは彼らのパトロール区域外だが、万一ということもある。急ぐにこしたことはなかった。  エンジンの音を忍ばせて、試験所の前ヘ車を着けた。優子が見張りに立ち、男二人が八代の身体を所内ヘ運び込む。  数分後には八代は、テスト室の床の上ヘ河岸《かし》のマグロのように転がされていた。あいも変らぬ大鼾が、その体の生きていることをおしえてくれる。彼のそばに例の水槽が置かれ、強い酸臭を発するコバルト色の液体が満たされていた。  同じコバルトでも、空のコバルトブルーとちがい、粘着力を帯びた無気味な色彩であった。しきりに瘴気《しようき》の立ちのぼる古い沼の面のような、まがまがしい色である。 「これが例の溶液ね」  優子は鼻を抑えてあとじさった。異臭にたじろいだというより、人体溶解力をもった液体の無気味な迫力に押されたのである。 「そうだよ、どうだい、ちょっと指を入れてみたら?」  堀口がからかった。 「そんなこと言わないで! 考えただけで、ゾッとするわ」  優子は、ふと走った連想に唇まで白くした。 「なんだ、きみらしくもないじゃないか。もともときみが考えだしたことなんだぜ」 「でもやっぱり恐いわ、この液体が人間を溶かしてしまうのかとおもうと」 「女心の矛盾かな? 化学的処理と言ったのは、だれだったかな」  堀口は意味ありげに笑った。 「私、とにかく車を返してくるわ」  いままでは頭の中だけで計画していたものが、いよいよ殺人の具体的な実行行為として形をとりはじめると、優子は、その場にいたたまれないような恐怖感を覚えてきた。 「まあそんなに急がなくてもいいだろう。どうだい、溶解の現場を見ていったら? 二度と見られない実験だよ。技術者として見過すという手はないだろう」 「いやよ、とんでもないわ、私の役目はもう果たしたのよ、あとはあなたたちの出番だわ。私、早く車を返して、アリバイをつくらなければならないのよ」  優子は、なんとなく粘りつくような堀口のものいいが気に入らなかった。彼女にしてみれば�大役�を果たしたあとなのだから、もっと優しくいたわって欲しかった。女の身で箱根くんだりまで、殺人の重要なパートを分担して往復して来たのである。  運転の疲労だけでも相当なところへ、異常な緊張が加算されている。事実彼女は、めまいがするほどの疲労に耐えていた。  ——それなのに堀口は——  まるで悪意でも含んでいるように、からんだ言いかたをする。 「車を返す必要はないよ」  怨《うら》めしそうな優子の目に、堀口は言った。 「どうして?」 「ぼくが返してやるよ」 「有難う、でもいいわ。私が借りたのに、あなたが返したら、私たちのつながりがわかってしまう。それにアリバイもつくらなければいけないし」  やはり堀口は自分の疲労を考えていてくれたのだと、優子が少し機嫌をなおしかけたのへ堀口は水を浴びせるように、 「アリバイもつくる必要はないよ」  と言った。 「どうして?」 「どうしてって、きみはここから出て行かないからさ」 「それどういうこと?」  優子は堀口の言う意味がよくわからない。ただいつもとちがう彼の様子が、まるで冷気が伝わるようにわかった。 「いま言ったとおりさ。きみはここから永久に出て行かない。だからアリバイも必要ない」 「な、なんですって!?」  優子は悲鳴のような声をあげた。 「きみは、八代と旅行ヘ出かけたことになっているんだ。だから旅先で彼と心中して、行方不明になる。そうだ、湖水に身を投げたとでもいうことにしてもらおうか。山の湖の底には漏水があるから、死体が上がらなくともおかしくはないからね」 「あなたは何を言いだすの? 変な冗談言わないでちょうだい。冗談にしてもひどすぎるわ」  優子は半泣きの表情になった。冗談でなければ、堀口は気が狂ったのだとおもった。 「冗談ではないんだよ」  堀口はむしろ悲しそうな表情をしている。 「きみにいられては、どうしても都合の悪いことになったんだよ。きみも知ってるだろう。名越副社長にお嬢さんがいることを。去年の春、大学を卒業したひとだ。あのひとがね、ぼくにプロポーズしてきたんだよ。その間のいきさつは、きみに話す必要はないな。とにかくぼくもそのひとが嫌いでなくなってね、きみとはまたちがったおもむきの美しい女だ。それにね、研究室付きの新居をつくってくれると言うんだ。結婚後はドイツヘ留学させてくれることにもなっている。  これできみにいられてはまずい事情がわかったろう。悪いことに、きみは妊娠して、どうしても堕胎を承知してくれない。きみと結婚してもこの日本に貧乏世帯がまた一つ増えるだけだ。ぼくには技術者としての無限の可能性と将来がある。それをきみに摘みとられたくはないんだ。ぼくにその可能性を験《ため》させてくれ。そのためには、きみと八代といっしょに死んでもらいたいんだよ」 「そんな……、そんな馬鹿な……」  優子は途中で何度も堀口の途方もない言葉を遮ろうとしたが、あまりの驚愕《きようがく》に声帯がひきつって声が出ない。 「ねえ、そんなこと嘘《うそ》でしょ、私が悪かったわ、あなたを知らず知らずのうちに拘束したりして、子供も堕《おろ》すわ、なんでもあなたの言うとおりにする。だからそんな恐しいことは言わないで」  彼女はようやくそれだけの言葉を押し出して、懇願した。だが堀口は悲しそうに首を振って、 「だめなんだ。もう遅すぎるんだよ。弾は発射されたんだ。もう元へ戻すことはできない。古木さんは八代をどうしても殺さなければならない。ぼくはきみに生きていられては困る。ここに共通項が生まれた。そして都合がいいことに八代はきみに惚《ほ》れている。二人がいっしょに消えてくれれば、世間は駆け落ちしたとおもってくれる。だからこの計画は加害者と被害者の四人がピタリと組み合わさって初めて成り立つんだ。いまさらぼくだけオリるわけにはいかないんだよ」 「嘘! 嘘よ! 嘘にきまってるわ。ねえ古木さん、嘘でしょ。お願いだから嘘だと言って!」  優子は、憮然《ぶぜん》とした表情で二人のやりとりを見守っていた古木にすがりついた。 「ねえ、古木さん、嘘でしょう?」  古木は、優子に身体をゆすられながらも、感情を喪失したように一言も答えない。その沈黙が、堀口の恐しい言葉を裏書きしていた。  彼女はようやく彼らが本気であることを悟ったのである。 「たすけてえ!」  彼女は恥も外聞もなく悲鳴をあげた。 「どんなに悲鳴をあげても、外には聞こえないことを、きみはよく知ってるだろう」  堀口が諭すように言った。優子は出口の方へ駆け寄った。 「だめだめ、さっき鍵《かぎ》をかけた。ほら、キイはここにある。今日のためにオートロックに、さらに中から鍵をかけられるようにしておいたのさ」 「あなたは気が狂ってるんだわ。私を殺したら、必ずバレるわよ」  彼女は自衛本能から、恐怖を忘れてわめいた。 「どうしてバレるんだ。きみがここへ来たことはだれも知らない。レンタカーは、どこか遠くへ乗り捨てればよい。ほらあの水槽を見てごらん。一人分にしては少し液体が多いとはおもわないかい」  堀口の指さした水槽を満たした粘液のコバルト色が、凶器のように優子の網膜を射た。 「ま、まさか、あなたは……」  あとの言葉は、恐くて言えなかった。 「死体さえ完全に消してしまえば、絶対に安全だとおしえてくれたのは、ふふ、きみだったんだぜ」  優子の体の芯《しん》から噴き上るように恐怖が湧《わ》いてきた。初めて、髪の毛がすべて逆立つような恐怖を実感したのである。だが彼女は、その恐怖を長く味わわずにすんだ。  堀口が優子の体に向かって跳躍し、情け容赦のない男の腕力で、その首をがっちりと捉《とら》えたからである。恐怖は苦痛にすり替えられ、速やかな意識の消失とともに、視野が暗黒になった。      8 「すぐにはじめましょうか」  並んで横たわった八代と優子の体を見下して、堀口が言った。優子は意識を失っただけで、まだ死んでいない。 「そうだな、溶解にどのくらい時間がかかるか、実際にやってみないとわからないからな」  古木は腕時計を覗《のぞ》いた。溶液は�二人分�に増やしたから、理論的には一人の溶解速度と同じはずである。だが実際には、一人よりも二人のほうが時間がかかるだろう。その他実験では予測のできないいろいろなトラブルが起きるかもしれない。 「もう守衛も、交代したころだ」 「どちらからやりますか?」 「そうだな」  いざとなると、さすがにためらいが生じた。  殺すという行為は同じでありながら、人間の溶解は、刺したり絞めたりする定型的な殺人行為とちがって、スケールの異なるエクセントリックな雰囲気がある。  一般の犯罪者(おかしな表現であるが)ならばとうてい為《な》し能《あた》わないような異常な行為を、彼らがあえて決意できたのは、化学技術者という職業のせいである。  彼らはこの恐るべき作業に、日常携わっている実験の延長のつもりで取り組んだ。さすがにその直前、ためらいを示したのは、彼らの職業的な良心の鈍磨をもってしても、その作業のもつ凄惨《せいさん》な形相を糊塗《こと》しきれなかった証拠であろう。 「男からやるか」 「そうですね」  美しいものがみるみる白骨化する凄惨な構図を見ることは、後まわしにすることにした。すでに二人の体からペン、靴、鏡などの非溶解性物質はすべて取り除けられてある。 「飛沫《ひまつ》をあげないようにそろそろ入れるんだ」二人は、八代の眠っている体を、よいしょとかけ声をかけて、持ち上げた。堀口が頭のほうを、古木が脚のほうをかかえている。 「どちらから浸しますか?」 「脚のほうから入れよう、いいか、静かに」  水槽のふちへいったん乗せた八代を、二人は呼吸を合わせて、コバルト色の液体に浸しはじめた。  脚が液体に接触した瞬間、凄《すさま》じい白煙が噴出した。それは猛烈な動物性悪臭を孕《はら》んで、二人の面に直接吹きかけた。 「わっ」と悲鳴をあげて、二人は八代の体から手を離した。バランスを失って、それはゴロンと丸太が転がるように、水槽の中ヘ落ちた。「おーっ」と動物が吠《ほ》えるような唸《うな》り声をあげて、八代が水槽の中から身を起こしかけたのは、そのときである。全身を包んだ硫酸液の激烈な熱感が薬効で眠っていた彼を醒《さ》ましたのだ。  だがそのときはすでに遅すぎた。濛々《もうもう》たる白煙が彼の身体を包み、断末魔の自衛本能から、必死に水槽の外ヘ這《は》い出ようとする彼を、煮えたぎった硫酸が、油に落ちた天ぷらのタネを巻き込むように、しっかりととらえた。バシャッバシャッと白煙の中で硫酸液が飛沫をあげた。それがのたうちまわる八代があげたものか、溶解現象のプロセスとして飛んだものかわからない。 「く、くるしい!」 「たすけてくれ!」  古木と堀口自身が、室内にたちこめた悪臭ガスの中でのたうちまわっていた。これは彼らのまったく予期しないことだった。  溶解時に悪臭ガスが発生するということは予測していたが、よもやこんなに大量のガスが、しかも噴煙のようにいっ気に噴き出そうとはおもっていなかった。  悪臭が外部に漏れないようにわずかな換気口まで塞《ふさ》いでおいた。彼らは予測をはるかに上まわる悪臭の噴煙に愕然《がくぜん》とした。それは、ネズミと人体のちがいであった。彼らが危険を意識したときは、すでに白い煙幕の中に閉じこめられて、視野もきかない。動転しきった堀口はなにかにつまずいたはずみに、鍵を床のどこかへ落した。 「早くドアを!」  古木がむせびながら叫んだ。 「鍵がない!」 「馬鹿! 早く探せ」  堀口が、突然、凄じい悲鳴をあげて倒れた。失神していた優子が、悪臭によって意識を回復して、彼の脚にしがみついたのである。  なんの備えもしていなかった彼は、不自然な体勢を立てなおす暇もなく、床に手をついた。床だとおもったのは水槽の中だった。手は腕の付け根までコバルトの溶液の中にどっぷりと浸った。そこからさらに濃密な白煙が噴き上がった。  古木も喉《のど》をかきむしりながら、床に倒れていた。      9  翌早朝、近くのゴルフ場ヘ早朝ゴルフに来ていたゴルファーから、耐え難い悪臭が工場の方から流れて来るという苦情を受けた大日皮革東京工場の当直守衛は、早速工場敷地内をパトロールした。そして悪臭の源が、試験研究所であることを突き止めた。  風向の具合で、守衛よりも、外部が先に気がついたのである。あまりにもひどい臭いなので、合鍵を使って、試験所の中ヘ入ったところ、テスト室からおびただしい動物性悪臭を伴ったガスが噴出して、守衛は危うく窒息しそうになった。  数時間かけて、ようやくガスを放出し、テスト室の中ヘ入った守衛は、驚愕のあまり気絶しそうになった。そこに試験所の技術者二人の死体を発見したからである。  大騒ぎになった。なぜ彼らがそこで死んでいるのかいっさいわからない。  ともかく警察が呼ばれた。死体の身元はすでにわかっていた。大日皮革の社員であり、試験所の技師、古木正三と中脇優子である。検視の結果、二人の死因は窒息、ただし中脇優子の頸部《けいぶ》に生前に形成されたらしい扼痕《やつこん》が発見された。 「なんだ、これは?」  検証にあたった係官の一人が、室内の中央に放置されてある水槽に目を止めた。人間が並んで四、五人は横たわれそうな大きな水槽である。中にドロッとしたコバルト色の液体が澱《よど》んで、盛んな異臭を発している。浮遊物はなにも見えない。 「これが臭いの源《もと》らしいぞ」 「おい、気をつけろ、劇薬かもしれない」  指を触れそうにした同僚を、べつの係官が注意した。 「中になにか沈んでるぞ」  液体の底をじっと覗いていた係官が叫んだ。 「栓を抜いてみましょうか」  検証に付き添った工場関係者が、係官の許可を得て水槽の脇《わき》に付いていた栓を抜いた。水槽の吐水口は、床に掘られた下水溝に通じている。液体の�水位�がだんだん下がって、沈澱物《ちんでんぶつ》が次第にその正体を露《あら》わしてきた。  それはほぼ肉質を液化した頭蓋骨《ずがいこつ》や肋骨《ろつこつ》や腰椎《ようつい》や大腿骨《だいたいこつ》であった。人間のものであることを示す頭蓋骨は、古代人のもののように、古く遠い色をしていた。その人骨は明らかに二人分あった。 [#ここから5字下げ] 作者付記・この作品の執筆にあたり、犯罪科学研究者・成智英雄氏より資料の提供を受けました。 謹んで謝意を表します。 [#ここで字下げ終わり] 〈初出誌〉 行きずりの殺意 別冊小説宝石昭和50年6月 青の魔性    小説現代昭和49年7月号  殺 意     小説WOO昭和62年8月号 静かなる発狂  小説現代昭和46年9月号  肉食の食客   小説新潮昭和49年9月号  怒りの樹精   小説現代昭和61年8月号  人間溶解    小説現代昭和47年5月号  角川ホラー文庫『人間溶解』平成9年8月10日初版発行